清風読書会

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三島由紀夫「山の魂」 読書会テープ(未完)

【あらすじ】

S:「山の魂」は昭和30(1955)年の作品。主人公の名前は隆吉。山で生まれて山のこと木のことをよく知っている自然児。「金時みたいな若者」とあるから山の子。金太郎は、山姥に育てられた、真っ赤な顔をして、のちに源頼光の家来となる。山の人、自然の人。そういう人が、時代と政治に巻き込まれていく話。

 大正10年ごろ45,6歳で日本三大急流といわれる庄川ダムの建設計画にかかわった。富山県東砺波郡東山見村小牧にダムを作ることになって、電力会社と土地を買収する人たちと、実際に山や木を奪われていく人たちと、その人たちがいろいろ遣り取りをする。そのなかで、この隆吉は筵旗をたてて、自分たちの土地を奪うな、と都会の電力会社に押し掛ける。この筵旗というのが非常に特徴的だと思うのだけど、扇動家(デマゴーグ)でもあるし、一種の社会運動家でもある。自前で弁当代まで出して、そういう人たちを連れて行って反対運動をする。どういう構造になるかというと、警察力とダイナマイトと土方とが、みんなダム側についてる、という…一種の戦争状態。その中で、隆吉だけが何かあまりよく事情が分からない感じがする。隆吉自身は、山と木が好きで、そこに住んでる山の民を引き連れて、そこで演説をするのが好きである、と。

 それを見て、儲け口があると思って近寄ってきたのが飛田という男で。飛田は金が好きで美食が好き、洋服が好き、いつも絹を纏っているような男。「飛田ははじめて隆吉に会ったとき、一生の好餌に出会ったような気がした」というようにして、飛田はこのあとずっと隆吉を使って、ダムの反対運動をさせて、そのおかげで土地を転売したりする。そういう、飛田と隆吉とダムというセットで、何億何十億というお金を飛田は儲けていくことになる。

 4に入ると、隆吉が社長になって桑原木材という会社を興して、それを間にかませて、同じようにお金をむしり取っていく。訴訟だの何だの色々な手段を使っては動くが、隆吉のしていることが、どうも空回りしている感じがする。金の面では全部飛田がうまくやって、隆吉が作った借金なんかを払ってやるんだけれども、ずっと借金の首輪をつけておいて働かせる。隆吉自身はそんなことに興味がないから、演説が出来て、山の民を率いて抗議に行くという人生に結構満足している。喧嘩沙汰が心から好きだった。農相官邸の応接間で大声で怒鳴るということに非常に爽快な満足がある。

 桑原木材会社では隆吉は飛田に騙されたが、飛田と隆吉とダム工事、この三者関係はずっと続いていく。「各所のダム建設計画を聞き込んでいる飛田は、そのひとつひとつが補償でもめるたびに、自分の懐に大金がころがり込む勘定だ」というように、全国各地でダムを造ろうとすると、そこに反対運動が起こって、隆吉が現れて、揉めて、補償金が吊り上がって、飛田は金が儲かる。「ダムと隆吉と飛田とは、三位一体のようなものであった」と。

 隆吉はますます情熱的に火の玉演説をして、人も感動して、心酔者も多くて、たぶんとても幸福なんだと思う。一方飛田の資産は十億を越え、北陸きっての富豪になった。

深沢七郎 「サロメの十字架」その2

【空間と聴覚】

S:電話が掛かってきても、情報の切れ端しか伝わってこない感じがする。会話も切れ端だし。

N:何か色々なペアの会話が同時に進んでいるけれど、席が分かりにくかったりする。

S:何がどこにあるのかさっぱり分からない。

K:バーのカウンターって高い椅子のところがあるところでしょう?その奥側って言ったら、何か作ったりする所でしょう?そこにまたボックスを入れたっていうの?

S:つまり、この人、空間認識が非常に悪いんじゃないだろうか?

K:そのくらいごちゃごちゃなお店?

S: ごちゃごちゃでも配置くらい分かると思うんだけど。つまり、子供が片端から見えたものを描いていくように書いてるから、いつか歪んでしまう。

N:やっぱり発達障害なんじゃないか。

K:人間を区別しないのと同じように。

S:見えたものを順番に描いていく感じで描写するから、何がどこにあるかが本当に分からない。

N:確かに整合性がないっていうか。すごいがばがばな感じ。設定も。

K:それなのに…

S:面白い。

S:これだけの人数出てくると私たちだったら人間関係を紙に書かないと分からない。深沢七郎は純子だったら純子の声、ママさんだったらママさんの声とかで、頭の中で声だけで判別している感じ。だから位置関係がさっぱりわからない。

K:全部平面になってしまう?

S:声の区別は非常によくしている。

K:やっぱり音楽家なんですかね。

S:入り口で喋っている言葉と、こっち側でしゃべっている言葉で遠近感がある。

S:しかし、その遠近感をつなげても、どこで人がどうなっているのかはよく分からない。

N:書く人にしかわかってない感じですよね。

K:小さい子が何か報告するとこんな感じ。

S:一見プリミティブな感じに思えるけれど、ところが視覚障碍者が持っている位置感覚の鋭さ、精密さが同時にある。その精密さを私たちはよく分からない。よく考えるとどうしてアケミがハネられていくか、みたいなことが割とはっきりと描かれているような気がする。

S:アメリカシロヒトリの名前の件もそうだし、オソバ食べに行く(売春)とか、そういう人の動きが、音声感覚を持ってる人にはきちんとあって、ものすごくきちんと組み立てられている。だから両方の印象がある。ものすごくきちんと組み立てられているようでいて、一向に座席も分からなければ人数もよく分からない。社長さんと呼ばれている人や男の数も何だかよく分からない。(社長と所有者の区別もよく分からない。)

K:ボックスが3つ、それで12人しか入れないのに、6人連れと3人連れが入ってきて、その前に出て行った人はいないはずでしょ?

S:聴覚だけで書いた中では、ちゃんとホステスが間に滑り込めるんですよ。

K:これ工学部出は最後まで読めない。

S:いつもこう空間が縮んだり伸びたりするような感じがある。

K:だから結婚相手は幸田文さんでも吉屋信子さんでもいいんだって(「ないしょ話」)。

N:誰でもいいんですかね。

S:でも結局、誰も選ばなかったじゃない?誰でもいいんじゃなくて、誰でもなく誰でもあるってこと。

【私はあなたである】

S:ママさんが大阪から帰ってくるというのも面白い。お金をせびりに来るんだよね。で、純子の方も(出す)。

K:「これくらいはしょうがないよ」って。

S:前の住人の残りの電気代やお米代も、まぁしょうがないから払ってやるわ、っていう感じ。そういうめぐりあわせとか、巡りの思想みたいなものがすごくきちんとある。

K:こういう世界ではこれが常識なんでしょうか。法的にどうこうとか、何月何日まで日割りにする、なんて。

S:おりんが自分のストックを、息子の嫁に教えていく。そうやって持ち物を次ぎ次ぎに明け渡していく。「楢山節考」はそのループが非常によく描けている。

K:孫の嫁が、おばあさんがまだ死んでいないような時期、山に行ったばかりの時に、もう帯を締めていた。

S:ひ孫ができちゃって、「ひ孫の顔見ないうちに早く山へ行かなくちゃ」と言っている。

K:「そんなこと見たら恥だ」と。

S:順番のループを探すと、そういう姥捨ての例がある。ただ姥捨てが今実際にそんなにあることではないから、いわばフィクションとしての姥捨て。ホステスのループは実際にあること。ホステス一人一人も、自分がオリジナルな社長の愛人というよりも、そのループの一人であるということが自分のアイデンティティになっている。

S:戦後の、いわゆる民主主義教育を受けた人たちにとってすごく違和感があるはずだよね。

N:一人ひとり特別。

K:唯一無二の私。

S:むしろループに重なっていくことが「庶民烈伝」の庶民のアイデンティティになる。ママが純子を子供だ子供だって言い張っているのが、私たちにはよく分からない。

N:最後まで言ってましたよね。

S:「麻雀やりたかった、会いたかった」…「誰が会いたいもんですか」って。しかし、私はあなただから、やっぱり会いたいんだと思う。

S:私はあなたでもあるっていう、この感覚を私たちは到底持てない。どうして深沢七郎がそういう感覚が持てたんだろう?

K:村上春樹のジグソーパズルの一コマとは、あれは形が違うからやっぱり違うんですかね。

S:違うでしょう。ジグソーパズルじゃないよ。ジグソーパズルは全然動かない。これはどんどんぐるぐる回っていくのに、私はあなたでもある。

N:それってまた今必要になってきた考えでもありますよね。

S:私たちはオリジナル幻想に深く侵されているので、私はあなたであるってことが心底言えない。この人は、伊達にこういうところで歌うたったり、お金貰ったりしてギター弾いてるわけじゃないんだよね。おそろしい。すごい。

S:それがアメリカシロヒトリ=アメリカ進駐軍なんかまったく問題なしに跳ね飛ばしちゃう。そういう死生観であり人生観であり人間観である。ものすごくしっかり…日本人。

K:土着。

S:アメリカ民主主義なんて問題なく跳ね飛ばしちゃう。

S:だから右翼に狙われたって…まったく全然右翼は読めてないんだよね。ほんとに日本のオリジナリティそのものじゃないか、恐ろしいことに。

S:つまり、どんなにオリジナルであるよりも、植物のように反復していくことにえも言われぬ美しさを感じる。

【絶対贈与】

K:お金を渡すよりも、麻雀して負けてあげて渡せば格好がつく、ってことでしょう?

S:お互いに引け目にもならないし…そういうことって今でもやってると思う。

S:違う形で渡す。渡すやりかたをあげるほうが考える。向こうにまったく負担を感じさせないようにしてあげるっていうようにね。(絶対贈与がこのループの原理)

K:でも、お香典なんかもなくなりつつあるでしょう。お葬式をしないから。そうなるとだいぶ変わっていくようになるんじゃないかなあ…どうでしょうね。

深沢七郎 「サロメの十字架」 20161115読書会テープ

【変な語り方】

S:年を取っていようが若かろうが結婚しようと思えば結婚相手なんだ、というようなアナーキーさが深沢七郎にはある。

S:ラブミー牧場や、「生まれることは屁と同じ」とか、知性とか理性とか区別をしない人なんだよね。『楢山節考』は、そういう区別のない人間が、年齢順に順番に死んでいくわけでしょう?

N:たしかに、日記とか読んでいたら、普通の人とはちょっと違う感覚があるのかなという気はしました。でも私が知ってる発達障害の特徴には、ちょっと当てはまらないのかなあと思うんですけど。変わっていること自体は間違いがないですよね。

S:変わっているのもその通りだし、そこに出てくる語り口の怖ろしく…何ていうんだろう、独創的な?語り方って何なんだろうっていうのは、深沢七郎を読んでいていつも思う。今日の語り方もそうだよね。何でこんなにオリジナルなんだろう?

N:ふしぎ。

S:それで発達障害みたいな言葉が出てくるんだけど、私たちが書くとこうならないのにこの人が書くとこうなる、この感じが何なんだろう?

【ママの交代】

S:人力車というバーで、ママがいて、純子がいる。そして社長が純子と出来ちゃったんで、ママを純子に交代させようとする。この交代が一回目、次がもう一人の女はるみ。

S:はるみは途中から来て、何か上等な客を持っている…。

K:あれはアケミ。

N:アケミはすぐ消えましたね。

S:アケミがママになる感じだったのに消えて、ママが純子に交代し、さらに純子ははるみに交代する。社長がまた一週間前からはるみと出来ていて。すると、やっぱり交代モノか。

N:そうですね。

S:ママのアパートに、同じように純子が入る。

K:同じところに次の人が住む。純子もまた追い出されて、今度ははるみがそこに入る。

N:枠がある感じですよね。

K:『楢山節考』と同じ頃の作品?

S:ループというか、順繰りの小説になってるよね。

S:H君の話では、女性版の「東京のプリンスたち」だって言うんだけれども、「東京のプリンスたち」よりも循環の話がくっきり出ている。

サロメ

S:ところで、なぜ「サロメの十字架」なんだろう?

K:どうしてサロメが出てくるのか…。十字架に関係するようなのも全くないでしょう?

S: サロメってあのサロメ? サロメという若い娘が、ヨカナーンの首をくれという話。義父のヘロデ王サロメに惚れていて、お母さんを飛び越して、裸のサロメの踊りを見たいと言う。母親とサロメの交代がある。

K:そういう意味でママとホステスの交代があるのか。

S:「自分の子と同じに」(p.144)と何回も言っている。「おまえが可愛いんだよ」(p.150)。社長は、ママの次に今度はその娘を欲する。

S:それとも、十字架にかかったイエスの弟子の聖女サロメ? (それとも、後の1980年ごろに話題になったイエスの方舟を思い出す。おっちゃんと呼ばれる千石イエスの元で若い女性がホステスをしながら共同生活をする。)

アメリカシロヒトリとアメリカ毒蛾】

N:この人の小説は、まだ日記くらいしか読んでないですけど、たぶん技巧的なんだろうけど全然そんな風に見えないっていうか・・・

S:ヘタウマ?

N:町田康とかだったら、もっと分かりやすく、ガチガチに構成を作り込まれた感じがするんですけど、こういう風にサラッと書いちゃうのがすごいなっていう感じがします。

S:では、アケミはどうして途中からいなくなっちゃったんだろう?技巧的だとすれば、アケミの行方を考えなくちゃいけないんだけど。

S:アケミというホステス、その新しいホステスが自分よりも上等の着物を着て、自分がついていきたい、ママ候補で、てっきりママになるって思ったのに、肩透かしを食わされて、純子がママになる。この肩透かしを食わすところが、話としては面白い。

S:つまり、いい客筋を持っていて、いい着物持っている凄腕のホステスが、社長に送り込まれてきた。みんなそこで、アケミを次のママっていうふうに認めつつあった。それなのに、急に純子だって話に変わってしまう。ここのところ、技巧があるとすればここだと思うんだけど。

N:ふつうならアケミがなってますよね。確かに。

S:何でここで肩透かしになるんだろう。

S:それとアメリカシロヒトリの話が出てくるでしょう?アメリカシロヒトリと、

N:毒蛾ですか

S:毒蛾、これだと比喩になる。アメリカというお大尽の親分がやってきて、それに従おうと思ったら、案外そうじゃない、というような比喩の話になっている気がする。

S:アメリカシロヒトリって、アメリカからの帰化動物外来種で、つまりアメリカから人がやってきて、それと一緒に入ってきちゃった。つまり占領主、占領軍になるんじゃなかったか。

K:「桜・桑・鈴懸の木など多くの木の葉を食害」

S:桜が猛烈にやられて、つまりアメリカシロヒトリがアメリカだとすると、桜が日本ということ。

K:1946年に日本に侵入。ちょうど終戦直後。

S:ああそうなんだ。じゃあやっぱり進駐軍と一緒に入ってきた。これは面白いね。

N:ふうん、桜は日本、なるほど。

S:つまり、アメリカからの進駐軍であるアケミがやって来て、支配して、ママになりそうになったところを、これまでずっとやってきた反復・循環・繰り返しのリズム、日本のリズムの方が強かった、そういう話になるのではないか。

N:でも、ここでは、ママが次にママになる純子に対して、言ってますよね。

S:そうか逆か、うーん逆か。

N:アケミに対しては何にも言ってないですね。

K:ママとアケミは出会ってないの?

N:いや、一応…でも気づいてなかったですね。ママが全く見てなかった。

K:「新しい子が来るよ」とは言ってたけど。

S:純子とママとがなんかがあったっていうのはみんなそろそろ知っていて、その話でアケミの話がどっか行っちゃったんだよね

N:そうですね。

K:それはアケミが別範疇のものだからじゃないですか。ママ=純子っていうのは想定されたことで、社長の気まぐれによって、いつでも変わるわけでしょう、たぶん。アケミはここの社長とは関係がなかったのかな?

N:ここの社長とは関係なさそうですね。アケミにはまた別のアケミの事情があるみたいだね。

K:アケミは別のものだから進駐軍なんでしょうやっぱり。で、よそから来た人は出ていった。それだったら成り立つんじゃないですか。アメリカはいずれ帰って行き、土着の者に引き継がれる。ただアメリカシロヒトリをわざわざ純子に当てて呼んでるっていう所が説明がつかない。

N:本当はそう呼ばれる対象はアケミだったはずのに。

N:ママが「アメリカシロヒトリ」という名前をずっと覚えられずに、「アメリカ毒蛾」と言ってますよね。だから浅知恵で、本当は誰がアメリカなのか分かっていなかった。

S:ああそうか、「アメリカシロヒトリ」だとアケミになるはずなのに、「アメリカ毒蛾」って呼ばれたときに純子に変わってしまったと。(そこにチェンジがある)

N:名前覚えられていないから、そんな感じがあるなあと。

S:小説の後にアメリカの影はありそうだ。戦争が終わった後ってね、戦後に書かなくちゃいけないことっていうのがあるんだよね。

K:「サロメの十字架」は「新潮」の1967年3月号になってます。

S:アケミはアケミでどこかの店から追い出されて、違う店にやって来ている。ホステスが色々なループを使って移動している。

K:「前の店の名前じゃなくて、その前の店の名前だ」。

S:アケミの方が高級なループに属してる。この小説は、何が面白くて書いたかっていうと、ホステスたちのループの問題。ネットワークというのか、ループの交代の問題が面白くて書いているのではないかと思う。

K:「30万を15万にまけさせた」っていうのは…あれは何でしたっけ。

S:桁としては20万くらいっていうのと100万っていうのと、1000円単位、100円単位。桁がそれぞれ違ってループができている。純子の前のママは100万ではなく20万くらいしか持って行けなかった。金額的には20倍だとしても20万だったらば400万円ぐらい。60年代、オイルショック前だったらそんなもんじゃないかな。

K:オイルショックは73年。

S:この話の後。だから割とまだのんびりしている。

今村夏子『あひる』から、「おばあちゃんの家」 

20161202読書会テープ

【広島原爆文化圏】

N『世界の片隅で』の観客は、『君の名は』のようなオタク系とは違っていて、より政治的・現実的な関心があるひとたち。

Sご当地アニメになるの?

N呉の地名はよく出てくる。

Sそういうとき『はだしのゲン』は出てこないの?

N痛くて生々しいことは出てこない。

S『はだしのゲン』にも妹が出てくるでしょう?『世界の片隅』でも妹が出てくるでしょう?それを思うと、

N最後に原爆が落ちたあと、広島へ行って死んだ子と同じくらいの孤児を引き取り、姉さんとも関係が修復されるが、そんなに自分が死なしてしまったと悩んでいる感じではない。

S亡くしてしまった幼い子供の代わりに生き残った別の孤児を入れて関係が修復されていくというのは、「あみ子」も「あひる」も同じでは。

 『はだしのゲン』でも『火垂るの墓』でも妹が死ぬ。妹を守る兄、弟を守る姉、幼いものを守りきれなかった話が広島周辺で書かれている。広島原爆文化圏というような繋りがある。あみ子と兄がトランシーバーで繋がっていることが重要で、戦火の下で決して手を離してはいけないという話。

【家族構成】

Sみのり、弟、おばあちゃん、父、母。みのりとおばあちゃんは同じ宮永の姓だが血は繋がっていない。

Kおばあちゃんは父の父の後妻?

S厄介者のような形でインキョに居る。インキョと父母との関係が何度か変わる。

 1回目はみのりが幼稚園の頃、ガスが引かれて風呂ができて、行き来が途絶える(66頁)。

 2回目は小学校1年の秋祭りで、生後半年の弟が中耳炎、みのりは竹藪で迷い、おばあちゃんに電話をして迎えにきてもらう(81頁)。

 3回目はみのりは中学生で、一人でしゃべるおばあちゃん、これを発見したのは弟。小学校の頃洗濯物を届けるのはみのりで、中学生になるといろいろな人が届けるが、弟はインキョが臭いと言って行きたがらない。

S今は中学生だということは、みのりが小学校1年の迷子事件の頃から今までずっと、おばあちゃんは母屋に出入りしていたということ?

 誰が何歳かが詳し過ぎないか?時間に謎がないか?

 みのりが届けたおはぎを4個食べたのは中学1年。ぼけの症状が出ているという予想をみのりがしてぞわぞわする。5月の第三日曜には誕生会があった。おばあちゃんはよくしゃべるようになり、みんなが一人でしゃべるのを聴いている。

Nこれはあとの話に繋がっている。

【おばあちゃんの逆襲】

Sおばあちゃんは妖怪化している?家の中に何かが居るという感じ。「チズさん」でおばあちゃんを介護している人が、ケーキを食べたり、トイレに隠れて、妖怪のような目に見えないものになっている。家は古くなると何かが出る。

 これは何の話だろう?

K呼び出し音4回で電話を取るというのは、

Sそこに居たということ。

 妖怪話だと夜中にお櫃からご飯を食べる。

F食べ物が多く出ている。どう見ても昨日より足取りが安定しているというのは、おばあちゃんがだんだん妖怪化しているということ、若返っている?

N「チズさん」のときも、しっかり立つことが問題になった。

Sこれは何の話だろう?

K家の人が気づいていない隠し扉があるというのも怖い。勝手に出入りする隠し扉。

N台所へ向かったとあるから、食べ物に執着する?

S食事を出してもらえないというぼけ老人の異常な食欲?妖怪となってこの家を食べ尽くしてやる? おばあちゃんの逆襲?

Kトイレも使わなくなったとあり、これまで外トイレを使って遠慮していた。

Sトイレに座っていると、老人と子供が一体化した座敷童のよう。大事にしないと富が逃げる。神様になりつつあるおばあちゃん?

Fテレビを見ている人の前を横切る。

S透明なのかな? 

K小学校4年の時の孔雀の話。見えないものが見える?

Sみのりだけが見えている。みのりの年齢が詳しいことと、おばあちゃんの症状が対応している? みのりの子供時代を、おばあちゃんが身に纏っていくような。2人が交替可能なくらい近い。おばあちゃんは若返り、みのりは成長する。脱ぎ捨てた若さの殻をおばあちゃんが身に纏っているような。みのりがおばあちゃんとダブルキャストに見えてくる。孔雀が見えるのも、おばあちゃんの能力が乗り移っている? 入れ替わり、乗っ取られている? 抜け殻を纏うというのは・・・、蛇じゃあるまいし。(LE TEMPS DES GITANS、僕たちは緑の馬車に乗ったジプシーなんかじゃない、はトニオ・クレーゲルの台詞)

Kわらじは何だろう?

S「おばあちゃんの家」という題、おばあちゃんの家が乗っ取られて、それを取り返した話では?

N本当は自分のものだった?

S今村さんの話は、家を誰が継ぐかが重要な問題。このおばあちゃんは母屋を乗っ取られた。おばあちゃんは母屋に出入りする権利があるということ。

 みのりを除いて他の人は追い出されるんじゃないか? 弟の中耳炎はなぜなった? 子供が急に泣いて様子がおかしい、中耳炎は、稲の穂や何かが耳に入って炎症をおこす。妖怪がみのりを通して悪さをはじめている感じがある。(みのりは寝ている弟のほっぺたをつついてお母さんに叱られている。69頁)

Nみのりがインキョのお風呂に入って異臭がしはじめるのが気になる。おばあちゃんは髪を洗うことなどに気がつかない。(昔、ヨーロッパの旅行ガイドから、ジプシーには気をつけろ、小さな子供でも足で母親に抱きつきながらスリを働く、髪がベタベタだと。)

Kみのりに傷があってもおばあちゃんは気にしていない、そのままいびきをかいて寝ている。

【子供を産めなかったこと】

Sみのりの位置は、「あみ子」におけるあみ子、「あひる」の姉、家の中で普通ではない余計者の役割を持っている。弟は普通。

Kおばあちゃんとの連絡役?

Sおばあちゃんという半分幽霊の言葉を受け取ってしまう。気が変になる。人間と妖怪のことばが半分ずつ聞こえるあみ子のような存在になる。孔雀が見える。ものを書くというのもあみ子=今村夏子のポジション。

 この話の場合も、父母と弟は、後妻から乗っ取った家を継承していく。みのりは里の家の継承から無視された姉。そのみのりを使って、おばあちゃんが家を取り返す話。

 このおばあちゃんは後妻? 名前が家永で、「お父さんが生まれる前から」というのはどういう意味? なんでみんな亡くなっている?「子供を産んだ女の人は別にいる、会ったことがない」というのはどういう意味?

Kお父さんの父にとっては義理の母。

N後妻というより、子供を産めない人だった。

S子供が産めないから、新しい妻を迎えたのではないか。妻が二人いた状態があったかもしれない、同じ家の中に「別にいる」。

Sおばあちゃんは、新しい妻が来て子供を産むのを見ていた。後妻ではなく先妻。子供が出来ない女性は去るという定めがあったから。子供を産めなかったおばあちゃんは追い出されるはずだった。しかし行くところがないから追い出すことができなかったのでは。

 だからおばあちゃんには恨みがある。母屋に来た新しい妻と夫を見ていた。夫婦の納戸をじっと見つめていた。執念で誰よりも長生きして全部を見ていた。怖い理由はこれ。恨み辛みが凝った感じはこのせいだ。その頃からおばあちゃんは母屋に出入りしていた。「このおばあちゃんが、一体何を考えているかなんて、みのりは考えたこともない」(75頁)

Nなんでこんな話を書くんでしょう?

Kお父さんの親が本宅を取って、この人は除けられたわけですね。三代ぐらい離れればたいてい寄せてくれれば孫を可愛がるものではないのか。

S三代書かないと家を乗っ取られたことが見えないからではないか。

Sみのりが一番取り付きやすかった。みのりだけがこの家で余分な存在。「あひる」と同じように家を継ぐのは弟。

N次の話と繋がっている。

【墓を作ること】

S家を継ぐのは弟。あみ子は、生まれたのは女の子であるのに弟の墓にしていた。あのことと関わるのでは?家の継承の問題がある。あみ子の作った墓によって、新しい母親は自分の欲望に気づいてしまった。あみ子は、母の隠された意図を顕在化してしまったということ。新しい母が男の子を産むというのは、この家を乗っ取ることにほかならないから。新しい母は自分の中の隠れた欲望をあみ子によって見せつけられたことによって鬱病になった。

 だから新しい母の死産は、お墓を作って喜ぶべきこと。実際あみ子の予想(母は離婚される)とは違って、自分たちが追い出された。兄は家を出、あみ子はおばあちゃんの家へ。

 私たちはあみ子の弟の墓を牧歌的に考えたけれど。新しいお母さんに子供が生まれるとどういうことになるか、この話に重ねていえば、あみ子を通して、子供が呪い殺されたことになる。牧歌的な話と悪意とが対になっている。あみ子もみのりも、悪意バージョンと善意バージョンがあわさっている。

K深沢七郎的。

Sわらじ、靴下、雑巾など、子供を産めなかった妻は家の雑用掛かりになるしかない。そうして新しい妻が子供を産むのをじっと見ていた。(「子供の乳母か、まま炊きか、隠居なりともなりましょう」、「女房のふところには鬼が住むか蛇が住むか」心中天網島

S三度三度食事をもっていくのも神様を祀るような。

K「お供え」のような。

【「あみ子」再び、20161224追記】
Sあみ子の存在そのものが小説と同じことをしている。あみ子のしていることが、解読を必要とする小説である。
H僕たちが読書会で読み解かないといけないということですね。
Sなぜあみ子が弟の墓を作ったかを考えると、厄介な触れたくない問題が出てきてしまう。そういうものをあみ子は映し出す。小説家はそれを顕わにする。だからお母さんはショックだった。
Hよく分かります。母はあみ子の小説を読まされたんだ。
S自分の隠れた欲望、隠れた暴力性、それ以外に母がショックを受けるはずはない。
H僕たちも「こちらあみ子」を読んで、お母さんと同じようにショックを受けて、なぜショックなのかを考えて、自身の暴力性に気がつかなければならない。
Sそうしたら鬱病になる。
H「あみ子」をただ変わった子の小説と言ってしまったら、あみ子を追い出した家と同じことをすることになる。自分自身の暴力性に気づいた上で、その先を考えなければならないのに。
Sそういう自身の暴力性に気づかなければ「あみ子」を読んだことにならない。私たちは知らないうちにあらゆるところでその暴力性を反復している。

 

 

今村夏子『あひる』から、「森の兄妹」 

20161209読書会テープ

【家族構成】

Sモリオとモリコの母は一人で働いており、父はいない。

Fおばあちゃんはモリオの本当のおばあちゃんなのでは。

Yそちらに行かせまいとして、お母さんが漫画を買って与えた。

S父の側と母の側で引っ張り合いになった。

F122頁に、「魔剣とんぺい」の黒モグラ団の団長がとんぺいのじつの父かもしれないとあるので、モリオのじつの父もあの男ではないか。

Sモリオは「魔剣とんぺい」に入り込んで読むので、おばあちゃんを守って黒モグラ団の団長のような怖い声の男と戦うことを夢想し、その男が自分のじつの父親かもしれないと知る。つまり、モリオは物語を通して自分の父親を発見してしまった。母はそれをずっと隠してきたので、それでモリオを呼び戻そうとした。

Yそうするとおばあちゃんの「みんなあげる」も分かる。

F父の新しい妻が産んだのがセーラー服と弟か?

Kだけれど、弟がモリオと同じ年であるから、モリオの母のほうが先妻?

Sモリオの母が後妻で、セーラー服の少女の母が先妻?どちらにしろモリオの父はその人かもしれないが、記述が断片的すぎて、二つの家族がどのような構成であるかあまりよく分からない。

「魔剣とんぺい」を母から買ってもらって、なぜおばあちゃんのところに行くのが最後になった?

Y孫だと言っているところで、自分以外の孫がちゃんといたということがバースデイパーティで分かったから。本物の孫がいたから。

Nモリオはおばあちゃんにねだって「魔剣とんぺい」を買ってもらうつもりだったが、母が買ってくれたから、もうおばあちゃんのところに行く必要がなくなった。

Sおばあちゃんがお金をみんなぼくちゃんにあげると言っているところから、この家の財産を誰が継ぐべきかという問題があるらしい。孫がいるからには自分には相続権がない。モリオが「魔剣とんぺい」を通して夢想したように、男が実の父で、おばあちゃんが実の祖母なら、自分には漫画を買ってもらう権利があるということになる。しかし、自分と同じような孫がいることが分かって夢が破れた。これでだいたい繋がったようだが、何か腑に落ちないものが残る。

モリオは、おばあちゃんを守りたいとも言っている。断片的で、このように繋げてよいかどうか分からない。

【子供を森に捨てる】

Nモリコが最初に孔雀を見ているので、モリコが何かありそう。

Sセーラー服の女の子も、小さい頃、孔雀だと思っていたとある。左右対称、父系列のセーラー服と弟、母系列のモリオとモリコ、おばあちゃんがどちらの系列をとるかという問題か?お金をあげるというのはモリオが正統になること。

Nそれなら、モリオ達を選ぶのはわかるような気がする。

S母が病気、おばあちゃんが病気、同じ病気かな。ともに投薬の必要な病気を持っている。母は薬がないと働くことができない、てんかんのような? 女性経由で継承していくなら、モリコにも何か病気の兆候はないか?

Nあばれている。132頁に泣きじゃくり、暴れて、殴るとある。

S発作ではない? 女性経由で病気が伝わる。いずれモリコも発病する。男たちはその病気の世話をするということでは?父には別の妻がいて、美しいセーラー服の姉、弟も健康な子どもが生まれている。病気の母とモリオ・モリコは外に出された。つまり、欠損があって森に捨てられて森で育っている子。

K大江健三郎と関係があるか?

S『同時代ゲーム』も兄妹類型で、いずれ光君をむかえて四国の山の中にアジールを作っていく話では。モリコ、モリオは変な名前。捨てられた子、里の家制度から追い出された子。あみ子と同じように植物をいじっている。森の子の系譜。

N人形を見て神様と言っているのも森の系譜らしい。

Sオシラ様の人形のように。

S里の家継承の物語に対して、森の子は、家を出て、村を出て、冒険と戦いと恋の物語を生きる(父は不在)。

あみ子にとって、おばあちゃんの家はアジールだった。森で子どもを育てる山姥だね。そこに人間世界では住みにくい発達障害をもっているような子を預け、保護する。モリコ、モリオは森の子、捨てられた森の子。私たちは発達障害の子供を森に捨てているということだ。

あまりの怖さに寒くなる。私たちは、必要とあらば老人を山に捨て、子供を森に捨てる。普通の生活をしていることそのものがとても暴力的、そのこと自体が暴力的だということ。排除問題とはそういうこと。わたしたちが結婚し子供を作り家を継承していくことがそのこと自体でとても暴力的であること。

モリオ、モリコはものすごく変な名で、双子のようでもある。「おばあちゃんの家」には宮永という姓があった。「森の姉妹」には姓も名もなく、森にいるからモリコとモリオ、名前がない、戸籍がない。

【物語を生きるということ】

Y漫画は6巻だけ買えばよくないですか?

Sこの「魔剣とんぺい」は14巻まで出ていてまだ完成していない。モリオは6巻の途中とんぺいの父の真相が分かるところまで読んで、10巻に飛んで三分の一を読んだ。途中欠けている部分を想像で埋めて自分の物語にしなければならない。それがおばあちゃんを守ってあの怖い声の男と戦うこと。モリオはとんぺいに重ねて冒険と恋の物語を生きることで、はじめて自分であることができる。モリオには里の物語を生きることが出来ない。里の物語とは違う物語が必要。そういう物語がないと自分が何であるか分からなくなる。そのストーリーの元をくれるのが「魔剣とんぺい」。

モリオには物語を語ることが是非必要だということ。モリオは家の物語以外の物語を語らなくてはならない。これが、モリオ、あみ子、「あひる」の姉に共通する物書きのレーゾンデートル

N圧倒的ですね。

S山姥が里から子供を攫って来て、山の中で踊りや舞を教える話がある。アジールとして子供たちを保護する。山の民は足がすごく速かったり、お風呂は水に焼けた石を入れるとか、少し違った習慣がある、花の蜜を食べるのも山の生活だとおもう。汗をかくというのも何か必要のある特質なのではないか。

Kすべらないように。

S木に上るため。モリオはビワの木にするすると登っている。そしていつも走っている。

KYNF すごい、じわじわと怖い。

S森の習慣、山の民の習慣が、この兄妹にはある。あめ玉と針が古代の商品だった。あめ玉が森の子にはご馳走だった。

Sセーラー服の少女がモリオに、おばあちゃんを知っているなら遊びに来てと言う。社会的な礼儀にかなった招待だけれど、モリオはそれに応じることができない。なぜなら決定的にモラルが異なるから。お礼を言って訪問するのが私たちの物語だが、それがモリオにはできない。

実際モリオが来たら、おばあちゃんの家のものをみんなもって帰ってしまったりするだろう。

Kおばあちゃんは全部あげると言っているのだから。

Sあの子が来ると、ものがなくなるということになるだろう。