清風読書会

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山下澄人「率直に言って覚えていないのだ、あの晩、実際に自殺をしたのかどうか」(2016年1月 『新潮』)

2016年6月3日の読書会テープです。

【はじめに】

S 安富歩は、井戸に落ちた子供を見れば、ハッとして瞬時に身体が動くのが惻隠の心であると述べている。孟子は、人間の身体において自発的に作動するこの惻隠の心に社会秩序の源泉を見た。それに対して、アダム・スミスのシンパシー(同感)は、自分を離れて他人の目を通して自己を反省し、全体の利害のために自分を犠牲にするものであり、「魂の植民地化」であると安富は述べている(『生きるための論語』)。

 男は、俳優の試験のために東京へ来た。駅からホテルに入るまでに半日近くかかった。男は歌舞伎町へ行ってみたい。地図を書いてもらって外に出て、公園でアライグマを飼っている男と話し、自殺はしないでホテルに帰ると、もう1時間ほどしか眠る時間がない。このまま眠らずに試験へ行こうと考えるが・・・試験に合格したので仕事を辞めた。

【死にたいと思うこと(近傍)】

N 死にたいと思ったのは俳優になろうとしている男ですよね?

S アライグマを飼っている男は、目張りをしてブルーシートの家で自殺しようとしている。二人の男が公園で出会ったことで、それともアライグマのおかげで、自殺を止めた話?

 しかし、男はなぜ死のうとしたのか、少しおかしい。突然、何の前触れもなく劇的でもなく普通に、死にたいという考えが頭を過ぎった。自分でも理由がないと言っている。

N しかし、読んでいて思い当たる節があって、ほんとに大げさではなしに前触れなく、単に消えてしまいたいなあと思うことがあって、とくに違和感なく、突然死にたくなったんだと読んだ。

S 消えてしまいたいというのは誰にもあるけれど、これは、アライグマの男の死にたいが、男に映ったのではないかと思う。その場所に行ったので、アライグマの男の気持ちがこの男に映り込んだ。この男は、時間や空間の感覚があやうい人で、その場所に行って誰かに近づくと、その誰かが入って来てしまったり、入れ替わってしまうという話では?

  たとえば、ポストに間違った新聞が入っていて、その間違った新聞を見て俳優の試験を受けることになった(p.220)。偶然と言ってもよいし、予測しない違うものを受け取って、違うところへ行ってしまう。切り替えポイントのような人で、動かされやすい特色を持っている。

 もう一カ所、「できることなら建物の一つ一つ、電信柱、道の全部を記憶しておきたいと思うが無理だ。わたし、と呼ぶこれには無理だ」(p.224)とある。一つ一つ全部地図を書いてくれないと間違ってしまうこの男は、頭の記憶と身体の記憶が別であると言っている。頭の記憶はあやふやで全部覚えておくことができないが、身体は「これまでの全てを記憶している」(p.224)。

 だから俳優はこの男にとって天職。

 ここで使われている「わたし、と呼ぶこれには」という指示代名詞がこの短篇の典型。この、これ、ここ、それ、その、あの、そんな、こんな、という言い方は、自分の身体を基準にして、自分からの距離で言っている。このときに、それと言った途端、それが私の身体の中に入ってくる、私という身体=入れ物に入ってくるのでは。

 聖書の光あれと言うと光が生じるのと似ていて、「それ」と言うと自分の中に「それ」が入ってくる。(自分の身体を基準として言葉を発すると、指し示された「それ」や「これ」が私の近傍になり、「これ」や「それ」を含んだ近傍が自分になる。こういう一人一人別であるのに共有している近傍を、ハウスドルフ空間というのではないかな。)

 この短篇で試みられているのは、このような自分でもあり他人でもある(過去でもあり未来でもある)近傍を作り出す言葉。

つづく

 

中原昌也 「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)その3

【いくつか確認】【枠を飛び越える】【名もなき孤児たちの墓】【指輪】

【真弓の死体はどこにある】

S真弓はどこへ行ってしまったのだろう?この話のどこかで入れ替わっている。真弓が子供を産まなかったというのが確認できてしまうあたりがあやしい、そこでもう入れ替わってしまっている?

H事件自体が真弓に近付いて来ている。腐乱死体のある屋敷は、のり子の死の場面ではないのでは。「それを聞いて現場に駆けつけた警察」(p.211)の前で切れている印象があるから、そのあとが真弓の死体の場所?

Sここには死体がいくつあるか分からないくらい埋められている、そのなかの一つが真弓。

Aここの書き方はこれで全部終わりという書き方。

N「幾つものかけがえのない命」が犠牲となってとあって、真弓が最初に殺された?

S「私」の正体というのは、真弓をマークしていて、真弓にストーカーをしていた男、真弓のファンにも嫉妬して殺してしまう感じ。

A「幾つものかけがえのない命」というのは、SやM子のことでよいか?取り巻きがどんどん死んで行くことで、真弓の死が予兆されていた。真弓の死の前に起きた取り巻きのたくさんの死を無駄にしたという意味。それらの死が告発だったと。

S警察が到着しても、何かを隠している。色々隠しているので、真弓の死骸も出てこれない。

H真弓の死を掴むには、記事でもニュースでもだめで、小説でないと真弓の死を掴めないということ?

S面白い。現実を告発する力を、ニュースも新聞もテレビも持てなくなってしまった。

Nもし「私」が取り巻きを殺していたとして、その「私」が、その人たちの死を正義として、警察が彼らの死を無駄にしたと通報していたら怖い。

S「私」は自分でSやMを殺しておいて、警察に通報して捜させている感じがある。警察と犯罪者が競うのが推理小説の形式。『タイトロープ』(1984)で犯人と刑事がだんだん似てくる。犯人が刑事のネクタイを犯行現場に置いてきたりする。笑っているんだね、追いかけて来いと。犯人と刑事が重なってしまうのは新しい推理小説の定番。

H加害者と被害者が一致してしまうこの小説と同じ。

Sそこで、警察は無能な傍観者か、自分たちを映えさせる背景でしかない。正義は、探偵が勝つか、犯人が勝つか、勝ちを占めた方が正義となる。そうやって殺されていく真弓の正義は、小説しか書けないということだと思う。

Hはじめに「私」は真弓を尊敬している。真弓をマニュアルにして「私」が真弓になっていく話。この小説自体がマニュアルになる?

S最後にも「素直」という単語が出てきたり、ブラシの跡の乱雑な髪は『サイコ』の母親のカツラ、男であり女でもある一人二役

N「素顔を隠して自分が真弓ではないことをアピール」(p.214)とある。

Sもう入れ替わっている。ああ、それでこう言っている。

H中原の小説は、分かるとそれでないとだめという言葉になっている。

S「過去の時間の中に納まった状態で」「黙ったままでいる」(p.214)とあるように、「私」が勝利を得ているから、「私」が作った過去が正しい過去になる。

Hもう一度。

Sつまり、新聞や警察という正義がなくなったとき、追う「私」と追われる真弓のどちらが勝つかによって、勝った者が現実の主導権を握ることになる。「私」が勝った以上、いろいろな過去は暴かれない。「私」が勝ちを占めている以上、「私」が真弓に入れ替わったことを誰も指摘できない。「私」が真弓に勝つことが、現実を保証する唯一の方法になる、権力闘争なんだと思う。

 私たちはそれぞれが権力闘争に勝ち抜かない限り、自分であることができない、あるいは真弓であることができない。誰かであるためには、誰かを殺してその人を床下に埋めなければならない(という苛酷な闘争に放り込まれている)。

【おわりに】

S「私」が真弓に入れ替わっていると読者が気づけないと、「私」が勝利し続けることになり、真弓の死体は隠されたまま。小説が正義を告発できるかどうかは、読者にかかっている。

 二度目の指輪の光の中に閉じ込められ、金縛りにあっているのは「私」ではなく真弓ではないか、光から醒めたという記述はないのであるから。

S「動物や身体障害者を好んで虐待した」(p.211)というところが気になる。

A GATOサイトというブラジルあたりの動物虐待動画があるらしい、2chの生物苦手版で話題になっている。

S動物だけではない、アンドリュー・ラウの『消えた天使』(2007)は、失踪者の捜査官の話。アメリカの映画だけれど日本にもあるだろう。失踪の感触が似ている。廃墟になった工場のようなところでいろいろなものが見つかる。噂話だと、「オルレアンの噂」や「だるま」を思い出すから、この小説はとても怖い(ベケットの三部作のように人間の身体が切り詰められていくことが黙示的に怖い)。

S  真弓が閉じ込められている緑の指輪について、ずっと気になっていた。ビュトールの『時間割』に、姉がつけている昆虫を閉じ込めた琥珀のような指輪に見入るシーンがあった。男は、妹も姉も見失って失意のうちにイギリスを離れる。神話のような過去に魅入られて、目の前の女性を見失う男の話だった。

201704追記

 

 

中原昌也 「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)その2

【いくつか確認】【枠を飛び越える】

【名もなき孤児たちの墓】

HN南海キャンディーズ(p.210)とかポパイとか、このへん実在する名が混じっている。

S微熱少女とか、

H事実っぽく、新聞記事っぽく書いてある。これも核心に近付いていく感じ。

S新聞記事は毎日繰り返し、しかし起きる出来事は異なると漱石は言った。しかし21世紀になると、起きる出来事もほとんど同じ。出来事とフィクションとの違いを示すのが新聞の役割だったが、21世紀になると、雑木林から雑木林のように区別がつかなくなった。

H事件は違うし、SとM子など当事者は違うのに、よく似た同じ事件にしか見えない。

Sどうして柴田のり子だけ名前があるのだろう?芸名=ラベルが次々乗り換えられていくということか。この新聞記事らしく書いてあるあたりは事実と虚構の区別がつかない。

H区別がつかないことを言うために何度も記事が書かれている。ここで事実と虚構が混ぜられている。柴田のり子という名前があってさえ区別がつかなくなる。名前もあてにならないということか。

S真弓のまわりで人が失踪している。住居の床下に死骸が隠されている。何人も都会の隅で消えている行方不明者が埋められている。

Hいつの間にか入れ替わられて、住宅の下に埋められている。芸能界から人が消えるのと同じように、失踪者となって埋められているのが名もなき孤児たち。この小説そのものが、名もなき孤児たちの墓となる。

S『名もなき孤児たち』の「ドキュメント授乳」は、真弓の子育て本と重なる。母親が子供に乳を飲ませるドキュメンタリーで、どこか繋がっている。

H子供も繰り返し、再生産。

S敷石の上に並べられてダンプが潰していく。次々子供を産んで、ロボットのように育てて、役が終われば踏みつぶされていく。社会の再生産なんだと思う。

Hどういう教育をするかマニュアルによって人格も揃えて育て、いらなくなると床下に捨てられたりダンプに踏みつぶされたりする。人間牧場、人間工場。

【指輪】

H指輪は「夢で罵られる」にも同じシーンがあった。完全に寝ている状態、陶酔、現実界の死に近い体験だった。

S醒めるのは、花瓶が割れる、催眠術から醒めるときのパン。

 死の体験(精神分析的体験)だとしても、醒めるときに、ここではない今ではないものを得て醒めるのではないか?真弓が将来書く本の片鱗を「チラリと垣間見たような気がした」(p.203)とある。ジェームズの辺縁は、新しいものや未知のもの未来が入ってくる場所。未来の可能性を拾ってきて醒めることが重要では。

H自分が形成されたトラウマとか傷の中に入っていって未来の自分を拾ってくる。太宰治の「清貧譚」のように、隣家との壁にあいた破れ穴から何かを得てくるやりかた。

N醒めるときに馬の嘶きも聴こえてくる。耳も聴こえてくる。

Hもう一回指輪が光りはじめて、二回繰り返されるのはなぜだろう?

Sこの辺になるとぼんやりしてくる。

N二回目はさっきの未来が見えるとも違うものが見えている感じ。今度は自分の身体が動かない、まわりの給仕達は動いている。

Sマジックミラーの向う側のような反転した世界に行ってしまうようだ。つまり、真弓が実際には生きなかった違う可能性の世界が見えている。ありえなかった違う未来が見えている。「まだ産まれてきていない、未来の真弓の子どもたちであったなら」(p.208)とあるから、真弓は子どもを産まなかったのでは? 

 二度目の光から醒める瞬間が書かれていない。

N二回目の光から醒めたあと、今度は過去の話になっている?

H一回目には予兆があって、実際に悪いことが起きた。二回目は過去のことになっている?

S「かつての真弓の取り巻き」(p.208)以下は過去、しかし、この過去は暴かれない過去ではないか。誰も知りえない隠されたままの過去。

H二回目は、知り得ない過去が見えた。

S死骸は誰も知らない床下に、これ先日実際にあったね。

 浮かんでこない暴かれない、忘れ去られた事件ではないか。ブライアン・デ・パルマの『ブラックダリヤ』(2006)という映画がある。都会にやって来た女優志望のビデオだけが残っていて、行方不明の失踪者となっている。

 

『軽率の曖昧な軽さ』から「真弓、キミが見せてくれた夢」(2016)

3月18日の読書会テープです。

【いくつか確認】

S冒頭で、「私」は暗い部屋の執筆机から日曜の午後の歩行者天国を見下ろしている。末尾で、「私」は真弓の部屋から日曜の歩行者天国を見ている。これ以外に歩行者天国が出てこないなら、これは枠。しかし、二つの「私」が同一人物とは限らない。

 色々な人が入れ替わっているらしい、何重に替わっているかも分からない、どうやって確かめたらいいだろう?最初「私」は真弓の女友達だと思って読んでいると、「俺」と出てくるので「私」は男?真弓が次に書こうとしていたのは異装者の服装倒錯の本(p.203)とあるので、この世界では、男と女、私と俺は交替可能らしい。

 不思議な現象がいくつかある。

 真弓の後の雑木林のなかの雑木林が右から左へ移動した(p.191)。背景と動いたものが同じで区別がつかない。たぶん、社会の中の人間が、区別のつかない状態で入れかわる移動するということなんだろう。画像が一瞬揺れてぴったり嵌まってしまうような。

 指輪の光に目が眩んでくる(p.201)。ダイヤの指輪の光に吸い込まれて、その中に記憶がよみがえる。

Hここにも「激しく行き来した」(p.203)とある。

N死ぬ前に、今までの出来事の重要じゃないシーンばかりが出てくるのと似ている。

Hそれはどこ?どこに何が出ているか本当に分からない。

S記憶だけでなく予兆という言葉も出ていて、過去・未来が光の中に現れる。これはウィリアム・ジェームズの意識の焦点説とよく似ている。

 それから動物の変死事件が二つ。雑居ビルの屋上から158匹の雑種犬が投げ殺されて、その下に母親康江さんと長谷川京介君の死骸が見つかった事件(p.204)。それと、犬や猫の死骸が細く切り刻まれたゴミ屋敷のような中に、たくさんの死骸がある。誰の死骸?伝説の柴田のり子が死亡している?警察が関与している。

 さらに、真弓の周辺の人物が、何人も失踪しているか死亡しているらしい(pp.205-209)。

 真弓はもう死んでいて、「私」という男性がだんだん真弓に入れ替わって行く話と読んでみた。「私」は、影のような存在で、真弓のストーカーの状態。真弓に近付く人間を排除していく、ファンの心理。そして、最後に、真弓おまえもいらないということになって、自分が真弓に入れかわる、という話に読めるかなと。

 映画でいうとヒチコックの『サイコ』(1960)。母親は息子を支配している。息子は母親をついに殺して一室に隠している(息子の趣味は剥製)。母親は死んでも息子を呪縛し続けるので、息子は自分をなくして母親に成りかわり、母親の意志を代行する。母親のカツラを被りドレスを着て(一人二役をする)。

【枠を飛び越える】

Sさあ、宜候と行こうか、それとも吶喊?

H「私」は、日の当たる真弓の反対側にいる。「私」の友人カップルが豪勢な食事に行って「イチャイチャ」する話。次の友人カップルも「イチャイチャ」している。これは真弓?それとも別のカップル?

S「この間はごめんなさい」(p.188)と言っているから、友人カップルは同じ一組。あれ?この友人カップルの女は真弓のように見えたが、真弓ではないということか。このあとに、真弓と「私」(男)が二人で会っている場面になる。

Hそうすると、やっぱりだんだん近付いている。最初はカップルに同席する第三者だったのが、次の場面では、男になって当事者になっている。

S第三者の位置から、作品の中に入っていく。ここで枠を飛び越えている。真弓の男友達の席に自分が座る、ついては、その男友達には消えてもらわなくてはいけないという感じ。

N「私」は女性目線でカップルをうらやましがっている。そのあと、女性の気持ちのまま真弓の恋人になっている?

Sこの話では男性と女性は入れ替え可能。男でもあり女でもあるのは、「私」でもあり真弓でもある一人二役をすることにならないか。二段階ぐらいで妄想が深くなっている。

 「素直」(p.189,p.193)という単語で、友人カップルと真弓カップルが重なってしまう。最初の「イチャイチャ」友人カップルにはたしかに名前がない。そのほうがいいんじゃないかな。おまえはたまたま真弓という名前を持っているが、最終的には名前を剥がして自分の妄想世界を作り、それにあらためて真弓と名前をつける。これは普通と逆。自分が男になったり女になったりするのに加えて、真弓というラベルを貼ったり剥がしたりということがあるようだ。

 名前はこれまでアイデンティティの核であったが、名前が剥がれるようになるという小説では。

Hたしかに、真弓は伝播していく。本を書いてベストセラーでどんどん増えていく。

Sやったこともないことを書いて、他の人のことも混じって増殖する、そういうベストセラーに真弓という名前を与える、ラベル作成の秘密を書いている。ベストセラーというのは、何であってもよい、誰が書いたのでもいい。

Hベストセラーは、その中から誰でも気に入る単語やフレーズが見つかるはずだとある。

Sその「誰でも」が雑木林の背景と同じ。私たちは雑木林の雑木で、動いたことは分かるが、区別はつかない。名前も主体も動いてしまうという話。それが雑木林から雑木林へ動くという話になる。

 私たちは、中身を持つかラベルを持つかでアイデンティティを確認したいと考えてきたが、その両方が入れ替え可能ということになる。

N育児本の感想を何回も反復するのも気持ち悪い。

Sそれがベストセラーの反復の状態。誰が読んでも、それぞれいいところを取り出して利用できる。

H芸風の話も、中腰のシャウト芸(p.206)は、男性Sでも女性M子でも同じ。しかもこれは真弓が考えた、ベストセラーの反復とまったく同じ。

Sお笑いタレントは映像映えする芸をする、ラッスンゴレライみたいな。

HNリズム芸、そこに次々入れ替わって繰り返す、そうすると雑木林感がある。

S人物もラベルも同じ、こういうのを雑木林芸と呼ぼう。

H中身は何でもよくて箱も区別がない。

S箱と中身の話は、先回(「恋愛の帝国」)は手紙の話で、手紙の中身は文章だから何かしらの内容を持ってしまうが、人物の中身と箱で考えると、中身もないしラベルも同じ雑木林になってしまう。

 どれも二回繰り返されている。

H地図の話も二度繰り返されている。

S「素直」や「地図」の反復があって少しずつ移動して繋がっていく。反復があって二つのカップルが連続して見えるが、その間に「私」は枠を飛び越して、男女も入れかわっている。箱を出たり入ったり、雑木林が移動するところだけは見えるが、それ以外は気づけない。誰かが私の替わりをしても誰も気がつかない。

N真弓の特色に、ランキングの上位に「素直な女」(p.212)というのがあって、ランキングもベストセラーと同じ。

つづきは後日

 

『軽率の曖昧な軽さ』から「軽率」(2015)その2

【はじめに】【二次現実】【箱とスクリーン】【鐘を鳴らすこと】

【コンビニで働くこと】

Oコンビニで働いている人たちが監視されている、「すべてが箱庭の中に閉ざされて死んでいる時間」(p.54)。鐘を鳴らすのが意識が戻ってくるための作家のやり方だとすれば、これから自分たちが働いて行くのは、箱庭の中で働いて床にこびりついたガムをとる勤労をして牛になっていく、ここを読むと自分の将来の姿に見えて思いやられる。

H『マリ&フィフィ』にも牛の場面があった。私たちはどうしたらいいのだろう?

Sどこへ行ってもそういう状態があるなら、みんな箱の中に入れられているわけだから、それぞれが鐘を鳴らすことができる可能性もあるんじゃないかな。この主人公でさえ、トイレの箱の中で二台のメトロノームがやってくることを繰り返している。作家だけが見るものであったり特権的ではない。

O「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌のように、誰しも箱の中でめり込んだ状態で鐘を鳴らす。

H超越的に天から鐘を鳴らすんじゃなくて、それぞれの箱で鐘を鳴らして、他の箱に耳鳴りのように聴こえる、直接は聴えないけれど、そのへんがノイズっぽい。

S箱とスクリーンだけが認識できるとすると、(それを通過するときの)めり込んだ感じとか、身体に刻まれた感じが手掛かりになるのかな。

Hみんなそれぞれ半分壁にめり込んでいる。

S写し出されたものは偽物かもしれないが、殴られてめり込んだ皮膚の感じがあれば自分がある。太宰の「皮膚と心」を踏まえているのではないかな。お菓子をもってきたはずが石鹸になっているように作家もどんどん騙される。見て認識する作家の役割があったが、しなびた生殖器のようなものを見ても分かるわけではない。見るとか発見するとかが特権的な意味を持たず、見えた先へも進めない。

【菓子と菓子箱】

N菓子の名前が見つからない。

Sドイツのあちこちの家庭で作られ、無人販売される、日本のポン菓子のような印象を受けた。この日常性に意味がありそうな気がする。箱に入れて届けられる、現実の世界と、ホログラムの世界を通して届けられる。これが送られてきて、食べると現実の徴になっているのかな。ここが現実という徴になる?牛も食べた。

Hお菓子の説明のところは、雑誌の説明に終始している。旅行の話はいくらか現実的だがそのうち意識がぼんやりしてくる。食べるというところは現実的になる。

N牛は現実?動物は二つの世界を行ったり来たりしている?

S草原、街と分けても、狐のような動物は行ったり来たりする。トラックで移動すると、森のホログラムから街へゴリラがついてきてしまう。

H石田は狐のコートを着ているから突破できる。

O石田みたいな人が出てくるが、石田だろうと考える根拠は狐のコート。しかし中身は違っているかもしれない。

Sココ藤本、日系三世、人も一世二世と入れ替わっても一緒だということ。

H同じようでも違う話がある。石田が部屋に来て、私誤解していたのを繰り返す。何も歌うなと言って修行僧のまねをする繰り返し。繰り返して少しずつ違っていくのが鐘をたたくことに繋がるのか。コンビニもすぐ同じようなコンビニになりガムがつくのだから、そのままでもいいのに必死にガムをとる。そこで一生懸命ガムをとっているのが鐘を鳴らし続けるのと同じ意味になるのではないか、労働の空間でも希望がある。

S山田が石田になり、光子が石田になり、人物も交替可能なんだけれど、交替可能な中で(どうしたら希望がもてるか?)

Hコンビニの話の続きをすると、吉田とは一瞬目が合って、ガラス越しに越境の感じがある。目が合わなかった村田も、水牛になって出会えるとしたら、水牛になることが希望につながる。姿が変わったからこそ村田に会えた。

S実は動物が嫌いで発狂しそうだと、動物も嫌そうで楽しくないのかもと。密閉された同じ空間で、箱に閉じ込められたままだと失神寸前になる。部屋に閉じ込められてしまう状態がまずい。

Hじゃ、牛に出会えて不快感を伴うのは、殴られるのと同じということ?部屋の違う人が出会うと不快感がある。

Sそうだと思う。

【軽率とは偶然である】

O「同じことが起こったときの対策」(p.78)を決めておくということがある。これは、まわりの世界は何も変わらないところで、自分の意識だけを変えるということか?修行僧のときも、ココ藤本のときも、歌うなと相手の意識下に働きかけると言うが、相手は何も変わっていない。相手に伝わっているかどうかは結局分からない。牛のときも同じ。

S「残念ながら計り知ることができない」と言っている。

Hどこまで行っても耳鳴り状態までが伝わる限界。

O部屋を出ようとして殴られたら痛いし、部屋に密閉されているのもだめ。離れたところにいて、自分の意識を変えるしかないのか?

S(そんなことはない。)大っ嫌いで見るのもいやな動物に、勘違いで菓子をやったら水牛と親しく接してしまった。衝突、チャンス。私にメッセージを持ってきたと勘違いして菓子をやる。衝突、事故、事故で思わず殴られたりする。軽率が必要。つまり、軽率や誤解が、違う世界や人と接触する機会になる。これか、軽率とは偶然のことか。

 勘違いで、思わず親しげに動物に近付いてしまう、これいいよね。石田じゃないのに石田のつもりで話しかけてしまったり、これも軽率な偶然。

B自分で勝手に判断しているところを数えると非常に多い。「わあ、可愛いですね」(p.28)とか、「ひと目で分かった。・・・わたしは感慨深げに」(p.29)とか、これを繰り返すと神様になるのか。

Hかなり軽率な判断にあふれた小説。

S神様はさいころを振るという話。軽率な判断を繰り返して行く話。

N軽率だということに自分で自覚がある。

【おわりに】

O中原の小説では、自分のやっていることに物語のようにつけていて、「わたしは感慨深げに、息をのんだ」(p.29)とか、自分の行動に対して物語的につけていて、その中で思いがけず軽率に熊の顎をはずしてしまったりする。

 少年Aをどうやって否定しようかと考えていた。少年Aは、自分のやっていることは神様の思し召しだというストーリーの中でやっている。自分のやっていることは神からのテレパシーがあると思っている。

S修行僧にテレパシーを送るとき、通じていると思っているのが少年Aで、テレパシーが届いたかどうかは分からないと言っているのが中原では?テレパシーが通じていると言ってしまってはだめだろう。

H鐘を鳴らしても、読者には耳鳴りぐらいしか届かないと考えるのが中原。

Sオウムやスプーン曲げ少年や、カメラでスプーン曲げが撮れてしまう。事実よりもう少し先のことが問題なのではないか。

N 自分も清田になりうると森達也は言っていたが、信じていないと引き返している。

Oオウムを信じた学生と同様、自分もどうなるか分からない。カポーティ『冷血』も少年犯罪。

Sカポーティも少年と同じ入り口から入って、違う出口から出てきたと言っている。(カポーティのようなストーリーを使わない場合には、お神籤やルーレットのような物語機械を回したサンプリングでいくしかないのだけれど、ゴリラの頭のようなものがついてきてしまうことがあるね。)

 

『軽率の曖昧な軽さ』から「軽率」(2015)

2月19日の読書会テープです。

【はじめに】

S作家は19世紀以来ずっと神の役割を引き受けてきた。しかし、太宰治中原昌也も、そういう役割を自分は決して引き受けまいとする。そのために、書くなんて最低のことだと言い続けなければならない。一方で、バモイドオキ神を作って神の振る舞いをなぞってしまった少年Aがいる。

【二次現実】

S狐や自然に化かされるというのがよく分からない。

N視界が定まらなかったり、壁にのめり込む感じや、耳がおかしくなるというのも、外から化かされている、どこかに迷い込んでいる感じがある。

Sホログラフィを使う芸術家の話があったが(『知的生き方教室』)、この作品でも何か半分ぐらいは投射された偽現実のような感じがする。そして現実と区別できない、つい騙されてしまう。

H水牛が出てくるあたりが一番ぼやぼやしている感じがある。

Sコンビニに盗撮カメラがあって仕事をしている人たちを写しているが、そのカメラが再生されると自然の風景の水牛になるんじゃないかと。カメラが通路になって他の現実と繋がっている感じ。この自然も少し嘘臭くて、映写されて画像転換して自然になおしているような。

Hだから魚眼レンズ。

S画像処理がされている感じ。石田が出てきても他のものになってしまっている。人物がループして次に出てくるときには、映写された二次現実のようになっている。能面のようなとか、修正、変換されている感じがする。

H彫刻のような、銅像のような。

Sちょっと前までホログラムで写し出されることに面白さがあったが、ここではさらに修正されて、画像処理されている?

H完璧な繰り返し再生の例は、ボーイスレコーダー、貧乏揺すり、CM、シューベルト2回、ストロボの点滅(p.11)、照明の点滅(p.14)は色が変化している。機械的反復の例。

 頭の内で再生する例は、文章の断片を念仏のようにリフレインする(p.20)、シーツがスクリーンとなって例の会場を思い出す(p.22)、テニスコートを思い浮かべて頭が鏡に映っている(p.35)。

BCDS禿頭の表紙絵は、鏡に映った頭? 

NHO伊藤は禿。

S鏡に写ったのは伊藤の頭?それとも自分の頭?

O私の頭部(p.35)とある。

S姿見の片隅に写っている私の頭部と本文にはあるのに、表紙絵では伊藤の禿頭がボールのようにコラージュされている。『夢十夜』の床屋の鏡の話と、現実ではないものが写ってしまう感じが似ている。

H鏡の例は、こちらを睨んでいる石田が写っている(p.39)。無精髭によって自分の顔ではないように見える顔(p.65)。

S鏡の中には、向こう側の、現実とは違うものが写ってしまう。

Hカメラの再生も鏡の反射も、どちらも再生したら違ったものになっているということ?

S鏡やカメラは違う世界への通路になっていて、この通路を越えると違うものになって写る。これは私たちの現実そのものでは?ニュースにいろいろなものが流れているが、実際は全然違っている。証言もテレビで再生されると全く違っている。

 本物か偽物の区別がもうできなくなっている。あちらが偽でこちらが本物という区別がつかなくなる。再生装置がいろいろあるが、再生の先に違う現実が作り出されていく。絵を描くというのは、違う現実を作り出すんですよね?

B見たとおりには描けないので、見えるように描く。

【箱とスクリーン】

B壁にめり込んだ意識(p.24)が戻ってくるということですか?

S意識が半眠状態(p.18)、浮いたり沈んだりしている(p.21)、意識が朦朧とし始めた(p.71)などの例がある。

 再生・模倣の例は、箱やスクリーンのような「もの」に即して考えた方がよいのでは。部屋と小屋、トイレ、コンビニも四角い箱。立体的な箱と平面的な箱があって、掌はそのなかに自分の一生が入っている平面の箱。シーツの平面にいろいろなものが写し出される、ポスター、鏡、窓、ガラスの汚れと外の景色がレイヤーとして重なっている。カーテン、油絵、人物ファイル、図鑑、それから菓子箱。外から見ると菓子か石鹸か分からない、中身が入れ替わってしまう。人物も外見が同じでも中身が入れ替わってしまう。

 主体も景色も変形している中で、私たちに認識できるのは今や箱だけ、スクリーンだけということにならないか。

Oリアルで自分が見たものより、シーツや窓などに写ったものしか認識していないということ?

S(リアルとフィクションの区別がなくなって)、窓やスクリーンを通して(通るとき)しか認識できない。

C壁は平面?  

S入れ物としては箱、テレビはいろいろなものを写し出す平面だけれど、テレビの箱の中に私たちの現実が入っている。ここではないものを写し出し、ここではないものに入れ替わる。違う世界とつながる乗り物としての箱。

【鐘を鳴らすこと】

O壁に飲み込まれたとあるように、自分も平面の世界に取り込まれた。自分自身が壁を見ていたはずなのに、自分も壁に取り込まれて、主体も背景もなくなった。

H壁とそれを見ている自分との関係も崩れて、自分もめり込んでしまっている。

S 超越者がいないということになりそうだね。自分も映し出される壁の中に入り込んでしまっている、神としての資格がなくなって壁にめり込んでしまっている。

 「あの鐘を鳴らすのはあなた」という歌をなぜ知っているの?

HOCD紅白で和田アキ子が歌っている。

Sトリアーの映画『奇跡の海』だと、鐘を鳴らすのは腐っても神という感じがある。教会にはもうすでに鐘がないが、最後に鐘が鳴り響くのは、腐っても(女を肥やしにしても)やっぱり神の存在があるんだろう(ほしいんだろう)。

 浮浪者のようになってしまった街の神様が、かろうじて鐘を鳴らす、凄く真面目に鐘を鳴らして、腕が疲れたというところがとてもよい。

Hみな素知らぬ顔をして、それもイベントのように思っている。

S神様は、ちょっと気の触れた路上生活者ぐらいにしか見えなくなっている。

B意外なほど体力を使った。生きている実感が沸いたという感じがある。

H「心臓が鼓動するのを感じることができた」とあり、「できた」というところに意識が戻ってきた感じがある。

Bかろうじて希望の鐘を鳴らすことで意識が戻ってきた。

S意識が戻ってくるのは深沢七郎の「東京のプリンス」だと思う、寝込まないでロックを聴く。

つづきは後ほど。