清風読書会

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「ねじの回転」その3 ヘンリー・ジェイムズ(土屋 政雄 翻訳) 読書会テープ20230305

【反復・螺旋・巻き込み】

M 家庭教師がフローラを手に入れるか、マイルズを手に入れるかというときに、それぞれジェスル先生やクリントが現れている前で、それが問題になっているのが気になりました。

S  この女教師はジェスル先生のしたことを反復しているようだ。ジェスル先生がフローラをかわいがったように、女教師もフローラをかわいがる。そういう反復がヘテロでもホモでも同時に起こっていて、何重にも複雑な反復が起こっている。

クリントらしき男が窓の外から覗いている、女教師が庭へまわってそれを確かめに行くと、女教師が窓の外に立つことになる。その姿をグロースさんが窓越しに見るという反復がある。そうすると、グロースさんはジェスル先生を錯覚するんじゃないか。というような反復が螺旋のように交差して、謎が深まっていく。

神経症的に女教師はジェスル先生に操られて、ジェスル先生と同じ事をしたというのではなく、どちらがどちらを模倣したか、移ったり、反復が他の人を巻き込んでしまったり、螺旋状に深まっていく。あきらかに、グロースさんは巻き込まれている。

H 家庭教師はグロースさんの目の中にジェスル先生を見てしまう。

S クリントが主人の服を着ている。塔の上に見えた男は主人の服を着ている。

H  マイルズが先生をからかうところでも、視線の誘導がありますね。フローラが窓から何を見ているか知りたくて、隣のマイルズの部屋を避けて階下に降り、庭のマイルズを見る。マイルズはフローラを見ているはずだけれど、先生は塔の上のクリントを見ていると思っている。

S  あれは、フローラの窓を見上げる仰角と、塔の上を見上げる仰角の差が怪異の出現する隙間ということになる。水平バージョンと垂直バージョンがある。

 フローラが、細長い湖を船でショートカットして渡り、その後を女家庭教師がグロースさんを引きずるようにして、大回りして対岸へ追いかけて行っている。水平バージョンがここにもある。この時もグロースさんを巻き込もうとして、この時は決定的に失敗している。

H クリントと階段で出会うときにも上か下かが問題になる。螺旋階段はねじの比喩になる。これはヒッチコックの『めまい』ですね。

T クリスマスに語られた怪奇譚というのでどれくらいの怖い話かと思いましたがそれほど怖くない。

S  ジェイムズの怪奇というのは、たとえば本を読んでいてはっと気づくと何かがいるというような、本のページをめくる時、ページの向こうは見えない、その時にこの世ならぬ変なものが見えてしまう。それが怪奇の原理ではないかな。

H そうか、マイルズがピアノを弾いているといつの間にかフローラがいないとか。

S  意識の断絶、意識の隙間が生じる。その隙間に何かか現れてしまう。本文だと建物の曲がり角の向こう側にクリントが現れる。

H  女家庭教師が塔の上に男を見るところで、この文字のようにはっきりと見えたというところが、くらっとする。怖い。普通とは事態が逆で、文字と理性の力を否定される怖さがある。

S  登場人物すべてが皆とても美しいのはなぜだろう。

I クリスマスに語られる人々だから美しい。

K 田舎娘にとっては、洒落た服を着せられて、調度も立派だから子供たちが美しく見えた。

H これだけ枠がたくさんあって、語り手がいるから、絵になるようにその都度加筆修正されたのではないかな。意識の話と同じように、伝えられていくうちに、ずれてくる。

【主役争い】

S 最初に女家庭教師が泊まった部屋が最高級で、全身を映す鏡をはじめて見て感動している。それで一挙に物語のお姫様になった。子供達はお話の作り手であり語り手で、家庭教師はその世界に入れてもらっているとあるから、屋敷の主役はどこまでも兄妹。

H おなじところで、兄妹ごっこをしているとあるように、兄妹を外からの視線で見ているので、語りの主導権は先生の方へ移っている。主役がここで交代している。

M 最後にマイルズが死んでしまうのはなぜ?

S  フローラがジェスル先生など決して見えないと言って出ていくのは、リアリストになった、お話の世界を卒業したということだろう。だから顔もこましゃくれた普通の女の子になった。マイルズはそれが出来なかったのじゃないか。お話の世界に殉じてしまった。

I マイルズは、退校になって屋敷で音楽や演劇で称賛を得られれば十分だったとありましたね。

S フローラとともに、音の世界に留まりたいというのと、一方で、クリントに従って男の子の世界を知りたい、もっと大きな世界を知りたい成長したいとい方向とに分かれている。

M クリント、あの悪魔とマイルズは言っている。

T 女家庭教師はマイルズを愛しているが、自分より出来の良い生徒として競争者にもなっている。

この女教師は誘導的で支配的で決定的に女性であることが補足であったのではないか。文字と知性によって叔父になりたかったのではないか。マイルズは叔父の小さな反復だから、マイルズを支配しようとし、結局殺してしまう。殺して、その位置に成り代わろうとする。

 全身の姿見と、外のついたベッドを手に入れて女主人公になって、フローラとマイルズの主役の位置を奪い取った。ゴシックロマンの主人公になった。

H 心の先生とKの関係のようですね。

【マイルズ=ダグラス】

M  最後のマイルズの死がよくわからないんです。

H マイルズが死ぬと言う事は家庭教師の物語が勝ってしまうと言うことですよね。そうするとマイルズと同じ立ち位置のダグラスはよく生き残ったな。

I  ダグラスは見事な朗読術だったとあり、それで女家庭教師に勝って主導権を取ったので死ななかった。

M ダグラスはなぜ手紙を送って送られたのか?

K  20年前の夏にその話をダグラスは女家庭教師から聞いていたから。

M なんで話そうとしたのだろう?

S つまりこれはお断りの話で、あなたの気持ちはありがたいが、私は今でもずっとマイルズを愛しているということになる。

M 忘れられない人がいるからダグラスを断った。

S ダグラスはその家庭教師を40年間思い続けている。この執着も相当恐ろしい。お話に祟られた、支配されたというようなことがありそうだ。そうすると、ダグラスはマイルズの反復、マイルズの次のバージョンと言うことにならないか?

 これは漱石の「こゝろ」と全くおなじ。若い書生の「私」は、先生から手紙をもらって、先生の死を抱えてこの先を生きていく。これは先生がkに死なれて、その死を弔って10数年を過ごしたしたことの反復である。

H  マイルズが、ネジの1回転目だとすると、2回転目はフローラではなくダグラスだということか。 子供が2人だから2回転ではなく、人を巻き込んで枠が増えると回転が増える。

【おわりに  読者のアブダクション

M  それでは3回転目は無いのでしょうか?

S  作者はダグラスの持っていた手紙を正確に写したとある。作者は多分ダグラスを愛している。クリスマスに語ってくれた手記を送ってくれたのは、愛されたことへの返礼だから、作家はダグラスを愛していたと思われる。女家庭教師も20年後に手記を送り届けている。これもダグラスの愛への返礼だろう。

H  ダグラスが朗読し始めようとしたときに、それならばいい題名があると言ったのが作者で、ダグラスはそれを無視して語り始めた。

S  なるほど。題名をつけることによって、その物語に意味を与え、所有者となり支配者となる。そしてその作者が出版したしたのが、今私たちの読んでいる「ねじの回転」という作品であるということになる。そうすると、次の4回転目は、わたしたち読者が巻き込まれて、「ねじの回転」を解釈することになるだろう。

 ダグラスは「作者」を誘引し、「作者」はそれに引き寄せられたが、ダグラスは「作者」の愛に応えなかった。この辺の事情も、『こゝろ』の先生と若い書生の「私」との関係に類比される。「私」は先生に誘引されるが、先生からは拒絶される。その断りの理由として、若い頃の出来事を語って聞かせようとした。しかしそれは叶わず、「私」の手元には先生の手紙が残された。「私」は先生の手紙を語る新たな語り手となり、ねじが回転する。読者を巻き込み、語り手として取り込んでいく構造は両者で共通している。これを読者のアブダクションと呼ぶことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねじの回転」その2 ヘンリー・ジェイムズ(土屋 政雄 翻訳) 読書会テープ20230305

【文字と音】

S グロースさんが文字を読めないことが重要ではないか。文字を読めない音声だけで生きている人と、文字を操る人との対立ではないか。フローラとグロースさんは音声の世界に生きているが、マイルズは学習したい勉強したいという成長の路線に乗って、文字文化に加担した。

T フローラは文字が読めない?

S  まだ文字を学んでいない、基本の文化が音声なんだろう。

K フローラは白い紙を渡されてアルファベットの練習をしている。

S フローラはあれが退屈だと言っている。文字の世界に飽き飽きしていて、音声の世界の方がずっと豊かだと思っている。それによってマイルズとフローラの運命が変わる。

女家庭教師は断然文字文化の信奉者、牧師の娘だから文字の教育を受けている。一方、グロースさんのように女性は文字が読めなくてもお屋敷に奉公できる。

女家庭教師が、あそこにクリントがいるとか、女の人がいるとか、グロース夫人に見ることを強要するのは文字の呪い、文字の支配力を振るっている。それにグロースさんが対抗できたのは文字が読めないから、文字の説得には決して納得しないから、見えないと言える。グロースさんは意外に重要人物。

I グロースさんがオウム返しをするのが気になります。それによって話がどんどん膨れ上がっていく。深読みをすると、グロースさんがすべての首謀者ではないかと。

S 逆で、音声に生きる人間は反復するしかないのではないか。グロースさんの意志ではなく、女家庭教師の意志をいたずらに増幅するしかない、そこで使われてしまい、支配されてしまう。それだけ文字の支配力のほうが強い。

H ただのオウム返しではなく、家庭教師が女の幽霊を見たときに、ジェスル先生という名を言ったのはグロースさん。反復しているうちに家庭教師につりこまれ導かれて、その名前を言わされてしまう。音声に生きているから反復するしかなくて、文字をもっている女教師に誘われて言ってしまう。

S 誘導されている感じがあるよね。女家庭教師がジェスル先生と言わせようとして、深層心理に働きかけるのを、文字を知らないグロースさんは無防備に受け取ってしまったということだろう。

M これは統合失調症の話かなと思って、中井久夫の『世界における索引と兆候』という本の内容とつながるのではないか。音声だけの世界というのは、幻覚と幻聴によって出来上がっている世界。この時代だとフロイトと関係があるのでは。「兆候は、何か全貌が分からないが、無視し得ない重大な何かを暗示する、あるときには現前世界が兆候で埋め尽くされ、あるいは世界自体が兆候化するのが世界破滅感であって、兆候化するとは不安のことで、、、記憶とこれから起こることについて、、、兆候化しすぎると精神病の領域に入る。」余韻とか予感がただよっている物語だと思いました。記憶をめぐってみんなが話していて、それは中井さんのいう索引という現象に符合するだろう。

H 家庭教師はそういう兆候を拾っている場面がたくさんある。

M 中井久夫統合失調症の研究をする精神科医

S 中井さんはおそらくフロイト精神分析の本道につながる人ですね。しかし、注意しなければいけないのは、ヘンリーの兄ウィリアム・ジェイムズは、それとはやや異なる心理学をはじめた人。サブリミナル識域下という訳語をつかって、無意識研究と区別されている。二つの異なる無意識研究があって、20世紀はフロイトの時代になってしまったが、ジェイムズはそれとは少し違うところがあるらしい。無条件にフロイト系の無意識研究を当てはめてはいけないのではないかと思う。家庭教師が、クイントとジェスル先生の死を無意識に察知してしまったと思いたくなるが、ヘンリー・ジェイムズは、その一歩手前のところで書いている。

 もう一つ、幻聴と幻覚の世界ということについて、無文字の世界は、野蛮な暴力的な非知性的な世界だと思ってしまうが、無意識と関わりの深い文化人類学レヴィ・ストロースが発見したことは、野生の思考。無文字の世界には知的認識の仕方があり、必ずしも文字がないことが非文化ではないということが20世紀の文化人類学の知見。

M 兆候と記号は同じsign

S そのサインをつかって書かれた小説を、私たちは、どこまで、どのように理解するかが問題になる。たとえば、マイルズは同性愛で退学になったと言ってしまっては多分違う。謎を作ったままあるということが小説としては重要。マイルズの退学理由は最後まで明かされない。ヘンリー・ジェイムズの書き方は、明かされない謎を、兆候のまま描くということだろう。

「ねじの回転」その1 ヘンリー・ジェイムズ(土屋 政雄 翻訳) 読書会テープ20230305

【はじめに】

S 最初に時間の枠を確認しておきます。

ダグラスが、筆者の「私」たちを前にして、おそろしい話を朗読して聞かせた時点。その時ダグラスは大体60歳から65歳位と見積もった。ダグラスは子供が二人登場する恐ろしい話を知っていると言い、その話を記した書き物(手紙)を自宅から取り寄せた。

現在、ダグラスはもう死んでしまっていて、死を目前にしてその手紙を「私」に送ってくれた。それをそのまま書き記したのがこの短篇である。

ダグラスが推定60歳の時に、20年前に知り合いの女教師が死亡して書き物を送ってくれたとあるので、ダグラスが40歳の時、女教師は50歳で死亡したと見積もっています。

女教師の死亡から20年前、女教師が30歳の夏にダグラスと出会った。ダグラスは20歳位の青年で、10歳年上の女教師から、直に10年前に経験した恐ろしい話を聞いた。この時点から60歳までの40年間、ダグラスは女教師に思慕を抱き続けた。

女教師が語った話は、女教師が20歳の時の出来事で、この20歳という年齢だけは作品の中で確定している。女教師は、さる屋敷に雇われて、二人のお子さんの面倒を見ていたが、一人は死んだ、そういう出来事があった。

H 螺旋階段のようにめまいがしそうです。文書の枠を確認すると、女教師の日記があって、それをダグラスが受け継いで、それを筆者が正確に書き写したということですね。手紙のように受け継がれている。

S 手紙のように文字という手段の受け継ぎと、ダグラスはその出会いの夏に女教師から出来事を聞いている。そのあと20年後に手紙が送られて来て、文字と口頭のズレがある。正確に写したという作家の文字のバージョンと、非常に美しく朗読したというダグラスの声のバージョンがある。

H 兄弟もたくさん出てきて、確認すると、お屋敷のマイルズとフローラの兄妹、ダグラスにも妹がいて、妹にその女教師がついていた。家庭教師にも兄姉がいて末っ子だとあり、グロース夫人を姉妹のように感じている。屋敷の主人も兄弟の子供を預かっている。

K 弟はインドで死亡して、その子供を叔父が預かった。

 

【さまざまの死】

S ジェスル先生の死因は何だったのだろう? 解説では子供ができて死亡したとあるけれど、そんなことは書いてない。身重になって年末に帰ったまま戻ってこられなかったという解釈? 隠しようもなくまずいことが起きて帰って来られなかったということか。

I クリントの死因は?

T  パブで酔って凍った坂道で足を滑らせたとあるが、「少なくとも表面的には」と書いてあって、結局よくわからない、謎だらけとある。

H 状況証拠、散らばっているものをつなぎあわせると、そういうシーンが何となく見えてくる。ジェスル先生の場合も、どこやらそういう絵・ストーリーが見えてくる。

S ジェームズ特有のどこやらそういう絵柄が見えてくるという書き方がある。「絨毯の下絵」

K 説明が多いわりには、はっきりしたことは分からない。

S さて、では最大の謎マイルズの死因は?

T BBCのドラマを先に見たのですが、世間知らずの初心で欲求不満の抑圧された女性で、病んでいる女教師が、マイルズへの恋愛感情をもってしまって、殺してしまったのか?

S マイルズとの関係は恋愛だろうか?雇い主の主人への恋愛感情があったことは書かれていて、女教師は恋愛をしていたという枠の記事がある。美しい主人への感情がマイルズへ移行した? マイルズの年齢は?

K 10歳。恋愛対象にはなりにくい?

H そうすると、マイルズと女教師との年齢は10歳差で、女教師とダグラスとの年齢差も10歳差。

S マイルズはこのとき元服年齢、レディと一緒ではいやで、男の子の世界に入っていくと言っているから、成人年齢に達しつつあり、かろうじて恋愛対象になると考えてよいだろう。ダグラスと女教師の年齢差と呼応していて、そういうお年頃だからと言っている。恋愛対象としてあり得るだろう。

H 2章で、あの方は若い女性が好きだからとグロース夫人が言うところで、双方で主語を取り違えている。あの方とは、旦那様?マイルズ?クリント?

S そうすると、雇い主の主人からマイルズへ恋愛対象が移行したところで、罰せられた形で死ぬということか。屋敷の支配者としての叔父さんの怒りに触れた?

M マイルズとクリントの関係はどういうものですか?

S 同性愛でしょう。

M クリントは、あんな恐ろしい関係をマイルズともちつつ、女家庭教師とも関係をもった。

S マイルズをめぐって、クリントの同性愛的な牽引力と、女教師のヘテロ的な牽引力とが争ったというようにも見える。

M 同性愛は捕まるのですね。

S オスカー・ワイルドアラン・チューリングも獄死している。「教え子」という作品でも同性愛が疑われるので掲載をどうしようか問題になったという。

M マイルズもクリントもどちらでもよく、グロースさんと女家庭教師も姉妹的関係がある。

S そうすると、この話は、時代の最先端で、ヘテロとホモが同等に考えられなければならない。謎が倍になる。マイルズが退校になった理由は、たとえば同性愛だと思えないことはないが、誰もそれを名指して言えない。何度も何度も話題に上っているのに、結局明かされない。言えない秘密になっている。

S フローラについては、最後に顔が変わるのが怖い。この兄妹はたいへんな美貌だというがどうも信頼できない。

K 屋敷の主人も美しい。

S ダグラスが女教師を非常に美しいというのも疑わしい。美しく聡明だというのは出来事を見るととてもそうは思えない。40年経つと美しくなってしまうのではないか。

T ねじが二回転したらどうだろう、子供が二人だったらとあって、フローラの問題も重要だと思う。

S マイルズはなぜ死んだかという問いの後には、フローラはなぜ生き残ったかという問いがあるということですね。

H 家庭教師はフローラを手に入れることには失敗していますね。その途端にフローラの顔が醜く見えた。そういう失敗の一回転があって、次はマイルズ。マイルズを手に入れることには成功したんじゃないか。成功したからマイルズは死んでしまったのではないか。永遠に自分のものにするためには、マイルズは死んでしまうしかない。

ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳「嘘つき」その2 20230218読書会テープ

【秘密】

S 画家が肖像を描くということと、小説家が小説を書くということが相似形になっていて、小説についての小説になっている。その構造をもう少し明らかにしたい。

 真ん中に何を置くかという最初の話に戻ると、大佐という特異な人物を置いていると考えることもできるし、嘘を置いているとも考えられるし、間に肖像画を置いているというのが絵画小説としてのこの小品の特色ではないか。

 オリバーは人を見るときに肖像画としてどうかと常に考えている。人を観察するとき間に絵を置いて考える、これがオリバー特有の見方ではないか。

H 肖像画を依頼された人の息子に会った時も、この人は肖像画にならないなと言っている。値踏みをしている。

S ライアンは絵に描かれた肖像こそ自分にとって現実であって、実際の現実から離れている人。逆に、大佐は、結婚して生活を成り立たせていて、現実そのものを生きている。現実を生きるか、肖像画の世界に生きるかという対立ではないか。

 そうすると普遍的な問題として、ヒッチコックの「めまい」のような話になる。肖像画の中の女性を愛するか、現実の女性を愛するか。

H 普通に読んだら、大佐たちの方が嘘つきで現実を生きていないと思えるが、現実に結婚して、世渡りのなかで面白い話をするために嘘をついている。

S 私たちの現実は嘘でまみれている。嘘と体裁と取り繕いに充ちている。つまり現実そのものを大佐は生きている。それに比べるとライアンはものすごく教条的で、うるさい黙れ、おまえが生きているのは絵に描いた餅だろうと。まるで逆転してしまったね。

H 最後のところで、夫人は、あなたにはお気の毒でした、でも私は絵のモデルをちゃんと所有しておりますと言っている。ここすごいですね。

K いままでの話をまとめるとこうなる。

H ライアンは絵を所有し、夫人は絵のモデルを所有している。

【家の構造】 

H ライアンの家の構造もへんですね。みんなが通る召使いに案内されて入る扉からの印象と、簡単に入れる庭からの入り口からの印象が違う。入るところによって部屋の印象が違う。対比している。

K アトリエが一階にあって、二階の回廊を通らないと一階に下りられない。

S 絵そのものの構造と、アトリエが同じ構造をもっている。見方によって見え方が異なる。このアトリエの描き方と、漱石の猫の家の構造とがどこやら似通っているように思える。

K 漱石の猫の家の説明もよく分からない。垣根がどこにあるか。

S 仕切りのカーテンを開くと回廊に通じるドアがあるとか、アトリエは増築されていて継ぎ足してある。通路や回廊というのが境界領域になっている。この複雑な建物の構造が絵の構造と相似形なんだろう。

H 最初の屋敷の構造も同じで、新旧継ぎ足してあって、廊下が長いと書いてあって、その先の部屋に幽霊が出る。

S 建築についてもジェイムズは趣味があって、そういうところも漱石と似ている。

【ゆく末あはれ】

S 犯人にされた女性がよく分からなかった。ジプシーみたいな女性で、顔立ちは悪くなく、「ほんもの」の何にでもなれるミス・チャームに似ている。

H 大佐の嘘の犯人にされた。

S あらゆる虚構に対応できるモデル。このモデルがいかにもうらぶれている。初々しい感じはしないとか、ひどい靴を履いて、どこか薄汚い感じ。この薄汚さと、大佐夫婦の生き生きした楽しさとが対になっている。

 絵やフィクションとは関係ない人たちは、非常に健康的に現実を生き抜いている。逆に、モデルや役者は、現実以上に薄汚く年老いていく。その隣に、非常に立派な絵が残り、舞台が残っていく。絵に魂が吸い取られる。この女性の薄汚さは身に染みる。すべからく芸術に関わるとこういう罰を受ける。

H 三代目桂米朝さんが好きなんですが、入門するとき、ゆく末あはれは覚悟のまえやでと言われたと。

S 富岡多恵子の「たちぎえ」の落語家もそうだったね。

I その女性はライアンは会ったことがないと言っていたけれど、ライアンは前に描いたと思っている。絶対会ったことがないと言い切っているのが逆に嘘つきで、使い捨てで、消費されてしまった人だと思う。

S  若さと美しさと生気は全部吸い取ったからお前は用済みだ、カスは出て行けということだろう。ライアンは相当ひどい。

H もう絵は手に入れている。

S この夫人がライアンの絵を手離したのもそういう意味があるかもしれない。ライアンに関わっているとろくなことにならないと。(その絵は、バタつきパンを子供に配っている絵で、聖女の肖像。理想化された観念の肖像だった。)

I 娘のエイミーの肖像を描くときも、毎回ついて行って非常に警戒している。

H エイミーの絵を描いているときも、夫人が自分に気があるのではという勝手な妄想を描いていたわけだ。

I 君の絵は眼を瞑っていても描けるよというセリフにぞっとした。ホラーですよね。

H 本人はもう全然関係ないわけだ。大佐の肖像も眼を瞑って描いた。

S 大佐が嘘つきだという観念を描いたわけだ。すぐれた肖像画家は人物の本質を暴き出してしまうのだとつい読んでしまうのだけれど、読者はここを読んでライアンは嘘つきだと気づかなければならないのだね。Iさんすごい目のつけどころ。

I ライアン気持ち悪いで読んだから。

S これはライアンを疑えという小説。

H ライアンは、大佐を装ったと言って、自分が絵を切り刻んでしまったと召使いに答えるところが、ちょっと引っかかったのですが。

S なぞるとか装うというのが気にかかる。

I 嘘をつくのでも大佐を装ってする、自分自身は嘘はつきません高潔ですという意味でしょうか。

H   Iさん、ライアンの嫌なところを見つけるのめざといな、ライアンのことはIさんに聞こう。

 

 

 

 

 

 

 

ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳「嘘つき」その1 20230218読書会テープ

【信頼できない語り手】

H 嘘を暴くために絵を描くときに、ライアンは、絵筆を使って現実そのものを描くというより、ねじ曲げて大佐を描いている。その結果はじめて歪んだ大佐の嘘が描かれる。その絵筆をとるやり方は、大佐が現実に対して脚色してその結果嘘をつくのと同じことだろう。

K ノンフィクションと同じで、見た人の事実であるということでしょう。夫人と大佐の関係は、朱に交われば赤くなるということで、そういうのも純粋経験でしょうか?

S 嘘が伝染した。その根底に、純粋経験つまり夫と妻とで無意識の通底があると考えられるということですね。夫と妻とは似てくる。

H ということは、大佐の肖像画が出来上がったときに、すべての嘘が現れてしまっているというのは、夫人の肖像画も出来上がっているということでもあるのか。大佐の嘘が暴かれているだけでなく、夫人の嘘も暴かれている。

K 本人はいい男に描けていると言っている。本人は全然気がついていない。

S  妻が肖像画を見て嘘に気がついたことで、オリバーはそれで辛うじて安心した。オリバー・ライアンって、かなり意地が悪いよね。ここには嫉妬という背景があって、この女性と結婚するはずだった、お金がないから結婚できないと断るが、オリバーにはまだ執着があって、これが大きな動機としてある。

K 今の私なら結婚してもらえますかと尋ねている。

I フィッツジェラルドの「乗り継ぎのための3時間」を思い出します。12年間会っていないけれど週に2回は思い出すと言うのはストーカー的で、ライアンの妄想、狂気を感じる。

S かなりおかしいのはオリバー・ライアンじゃないかな。

I そうですよね。

H 大佐と夫人の関係も歪んでいるけれど、ライアンの言うこともあまり信用できない。

S 信頼できない語り手だね。ほんとうにこの大佐は嘘つきだったのだろうか?と。他愛のない嘘で調子よく生きている人ではないか、その疑いがある。

 違ってしまうのは、オリバー・ライアンが悪意をもって肖像画を描いたというのが引き金になって、度外れた嘘、凶行が行われたということではないか。つまりオリバーの方が原因ではないか。オリバーが肖像画を描いて、ひどい表情を引き出したというのは、ものすごく意地悪い。

H そうか、絵が嘘を暴いたとも言えるけど、絵を描いたことによって、嘘がどんどん大きくなったり、取り返しのつかない嘘をつかせた。

S  インド帰りの大佐が腹を立てたのは、妻をめぐって、妻の嘘をあらわにしたということが、加害を加えられた、不当な加害を加えられたと感じたからだろう。普段は調子よく流していた。大佐の嘘というのは、インドの友人が生きたまま埋められてといった嘘。

H 他愛のない嘘。

K 幽霊、怪談話。

S しかし、オリバーが描いた肖像画は、あきらかな悪意、牙を剥き出した。それに対して大佐はナイフでズタズタに切り裂いた、そういう話に見える。だから作家も画家も嘘つきなんだよ。

H 単純に大佐と夫人が嘘つきだったとライアン側に立って読んでしまいそう。

S ライアンは、大佐の肖像を描き直している、悪辣な表情に描き直している。

I ライアンが嫉妬深い男に見えるかもしれないが大目に見てやって下さいとあって、作家は馬鹿に肩を持つんだなあと、逆に違和感をここで持った。

S  それが手がかりになった。

H 逆フラグが立っていた。

 

 

 

 

 

ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳「ほんもの」 20230218読書会テープ

【はじめに】

 「ほんもの」も挿絵画家の話です。画家のもとに立派な紳士と細っそりした夫人が訪ねて来て、絵のモデルにお願いしたいと言ってくる、しかし全然まるで使えない。そこへ何にでもなれるミス・チャームや浮浪者のようなイタリア青年オロンテが来て、なんなくモデルの仕事をこなしていく。モナーク夫妻はついに下働きでもいいので雇ってほしいという。画家は、さらに1週間まって、お金を渡してようやく引き取ってもらった。胸の痛い話です。

【にせものとほんもの】

S 変幻自在何にでもなれるモデルと、自分以外何にもなれないモナーク夫妻。

H モナーク夫妻は、写真を複写したようになる。

S 写真の複製つまりにせものになってしまう。モナーク夫妻をモデルにした挿絵は散々な評判で、友人の批評家にいわせると、君の経歴を貶めるという最大の非難を浴びている。

K 画家自身も自分の霊感がなくなってしまうと言っている。

H 「ほんもの」に出てくる画家の方が、「嘘」のライアンよりいいですよね。使えないからといって、すぐ追い払ったりしない。

S 追い払うにしのびない。

K 駄目だと分かってから1週間置いている。

S 友人の批評家ホーリーは、「永久に消えぬ痛手を負わせその結果二流の仕事しかできなくなったとくりかえしいう」と、痛手が大きく根本的であると言っている。これが引っかかるし問題だろう。

K ただのモデルならお払い箱にしておしまいになりそうだが、それがなんでこんなに残るのか? 二人の思い出のためなら犠牲を払っても悔やまないと言っている。

S これが「ほんもの」のほんものたるゆえんの問題点だろう。これがあるから、この画家はオリバー・ライアンよりかなり真面目は人だなという信頼を得る。

H 「嘘」に出てきた女性モデルについて、ライアンがほんとうは昔使っていたとすると、こういう痛手はまったく負っていないし、思い出にも残っていない。

S 何にでもなれるミス・チャームやオロンテは、そこから霊感を得て、挿絵を描いてその絵は残る。そして、ミス・チャームやオロンテ自体は忘れられていく。逆に、モナーク夫妻の絵は使い物にならないけれども、その思い出はいつまでも残る。モナーク夫妻の思い出は、何か非常に貴重な素晴らしいあるものを示していて、いつまでも残る。この二つのケースの相互補完性がないといけないと言っている。

K 人としては。

S そうねモラルの問題があるから、こういう話になる。

H 『とんこつQ&A』に入っていた「良夫婦」で、通報しないで躊躇している時間のモラルの話をしましたが、一週間モナーク夫妻を使っていたのは、その躊躇の時間ということですね。

S そうしないとこの画家はまずい存在になってしまう。モラルの問題。その猶予の時間を持てないと人間はアンモラルな存在になってしまう。

K その期間は、ナイフを磨いたりお茶碗を洗ったり、下働きをしていた。

H いたたまれない時間。

I 「教え子」のときでも、自分たちの身分は貶めないようにして子供たちを結婚させるような詐欺まがいのことをしていた。モナーク夫妻の場合も、そうやって自分たちの身分を貶めないようにモデルの仕事をしようとしたが、うまくいかなくって。

K いろいろな仕事に応募してだめだったとあり、使えなかったんでしょう。

I いわゆる肉体労働をして、何とかするしかないのだろうけれど、それもできなくて。

S もう一言、その先を、頑張って。

S「教え子」だったらその時何をする? 詐欺をするんじゃない? 立派な風采と過去の栄光にもとづいて人を騙す。しかしモナーク夫妻はそれができないから落ちぶれていく。そこが、この人たちを忘れ得ぬ人にしているんじゃない? 

IKH ああ、そういうことか。

S これくらい立派な風采をしていると、この人たちには詐欺をするという手段がある。

H 「教え子」では、自分たちに似合わないことしないために、似つかわしい姿形を生かしたやり方で詐欺を働いて体面を守っている。この人たちは詐欺も働けないから、自分たちには似合わない召使いのするようなことを最後にする。

S そこにモナーク夫妻のモラルのある生き方があって、それに画家は撃たれたということではないかな。いっそ騙してくれたらたたき出せるのに、それができないから滅び行く人たちとして思い出に残る。

H これすごい話だな。

I つらいですね、いっそ詐欺でもやってくれと思っちゃう。

S 詐欺ができればこんなことにはならないのに。夫妻に子供がいたら、立派な衣装と風采を生かして金持ちと結婚させるという詐欺を働くのだろう。

H ほんものは絵に残らないのか。

S 絵は嘘っこを描くものかね?

H 自分たちの生活が廻らなくなって、自分たちはほんものなのだから絵のモデルができるのではないかと思ったら、絵は嘘で作られていて本物でないものが絵になる世界と気づかされて、自分たちの生活を捨てて召使いのすることをするというのは、とてもつらいなあ。

 夫人がモデルの髪を直すシーンがあって、そのあとコーヒー茶碗を片付けるシーンがつづくが、このあたり唯一ちゃんと境界を自分の足でのりこえていった人たちではないか? ライアンであれば気づかないうちに嘘をついてしまうが、この人たちはぎりぎりまで頑張って、自分たちには似合わないと分かっていて、境界を跨ぎ超していく瞬間。この人たちにとっては本来の自分たちではない偽物になる瞬間なはずなのに、その跨ぎ超す瞬間こそがほんもの。そこが胸を撃つ。

S 夫が茶碗を片付けてナイフがぴかぴかに磨かれている。そこの切なさも同じ。召使いという自分ではない偽物になってしまうのに、そこを飛び越えたことで真実となる。

H ほんものがにせものになる、その跨ぎ超す瞬間で、ほんものが出現する。

S 絵画に残しているのはそういう真実ではないわけだ。

H 映像だったらヒッチコックの「めまい」の話が出ましたが、この瞬間変わってしまっているとか、この瞬間境界を飛び越したとか、そういう瞬間をとらえようとする、動いているから。止まっている写真や絵だとそういう瞬間をとらえられるのかな。

 文章も時間の流れがあるから、変わる瞬間を描ける、髪を直すために夫人が踏み出す瞬間を描ける。

S 絵には絵のレイヤーがあるし、例えば遠近法のゆらぎとか。

K 視線の誘導とか。

S 観客に向かう視線とそうではない視線が交差したりするとずれが生じて、そのずれの部分に、あいまいな領域が生じる。遠近法や視線の構図は、そういう立体性を生じさせる。

I 絵が二種類出てきている。本や雑誌の挿絵と一方で芸術的な肖像画と。

S ああなるほど。

I  挿絵は生活のためにやむなくやっていて、肖像画を誇り高い仕事としてやりたいと言っていて。モナーク夫妻は挿絵にはなりえなかったが、もしかして肖像画にはなりえたのではないかと思っていたのですが。

K はじめのほうで肖像画も向かないと言っていた。

I 肖像画にもならないと言っていましたか、そうか絵にならないのか。

S  絵は本物か偽物かをくるっと回転させる。絵が本物だったらモデルは偽物、モデルが本物だったら絵は偽物になる、二者択一的にひっくり返る。そうすると、反転の境目のところがあれば、そうではない可能性も見えてくるだろう。そうじゃない可能性は、髪を直す場面とか、ナイフを磨く場面としてとらえられている。

 それは絵ではできないのかという話だけれど、Iさんは、肖像画という一級芸術品と、挿絵という二級芸術品との差異でできないかと考えたのでしょう?

 2種類の絵がある、その2種類は画家がそう考えている。そこに手がかりがありそうに思えるんだけど。一流二流の芸術品の区別はそもそもないわけで、あると画家が思っているだけだよね。ああそうか、その認識をあらためられたということか。

H 同じものだということが分かった? もともとは同じものだったけれど、画家は違うものだと考えていた。

S 画家は、最後には、全集の挿絵は自分の命をかける仕事だと考えている。

H そうか、画家も夫妻がしたように境界を乗り越えているわけか。

S そのことを認識したから、この夫婦を重要な思い出としている。画家はここで学んで賢くなった。そのきっかけを作ったのがモナーク夫妻。

H 美しい。

S Iさん、肖像画と挿絵の違いに気づくのはすごいなあ。ここに問題がある。

H Iさんが得意なのはライアンだけではなかった。

S 人は一歩踏み出すことができる、人間の成長、成熟の話。

H 成長して完成するというと、どうしても本物の姿になって、自分の本来の姿になって、きれいな絵になるというのになりそうだけれど、本来の自分たちから偽物の方に一歩踏み出す瞬間で本物になるというのは、ほんとうにすごいな。感動する。

I 二流と言っているのは批評家のほうですね。何にも分かっていない。