三島由紀夫「切符」(1963年) 20190112読書会

【はじめに】

1,この作品は1963年8月の「中央公論」に発表された。冒頭に語られている1960年代の衰退しはじめた商店街のようすは、日本中の都市のあちこちで見られた光景である。

2,怪談の中核をなしている夏のお化け大会の描写は、八幡の藪知らずや鏡を使った光学装置や女の死体など、江戸川乱歩の『悪魔の紋章』へのオマージュであるだろう。

3,富子または時計屋の谷が死ぬマルチエンディングの構造をもっている。

【商店街の衰退】

三島由紀夫「雛の宿」その3

金閣寺の構造】

H『金閣寺』では、お父さんから聞いていた金閣寺のあとに、現実の金閣寺を見て幻滅する。「雛の宿」では、一回目が最高の一夜、二回目で幻滅する、おなじ構造。

S 幻滅した後、現実の金閣を焼けば、あの幻想の金閣が手に入るという思考で、金閣寺を焼くという行動に出る。

H「雛の宿」の方は、声をかければ幻滅するが、声をかけずに帰ってくる。それによって甘い幻想が残る。溝口は焼くところまでしてしまうが、この青年は声をかけないことで甘い夢をとっておいた。

K 逃げ道を作っておいた。

S 甘い考えは狂気と一緒だということになる。自分だけの現実に生きる者はみな母子のきちがいになるほかない。自分の幻想を守る普通の方法。甘い考えイコール狂気。近代の末路は、現在今こうなっている。安全、手軽な傷つかない方法。

S  母子の狂気も誰に迷惑かけているわけでもないからね。だけど何の解決にもならない。だから、第一案の「君はどう考える?」は、この甘い考えを肯定するダメな案。第二案の嘘つきのパラドックスにぶつかるしかない。嘘つきの語る大嘘を、信じるか信じないか。
    嘘つきのパラドクスは、錚々たる論理学者や哲学者が語っている。嘘つきのクレタ人問題。たとえば、プラグマティストのクリプキは経験主義で答えている。やってみればよいのだという。嘘か真かは決められないという人もいる。
    金閣寺を焼くという行動が、事態を打ち開く、この行動というのは三島の重要単語ではなかったけ?
H  行動に移すパターンが『金閣寺』で、行動に移さないパターンが「雛の宿」。行動に移さないから、パラドクスがぐるぐる回ってしまう話。それが三島の小説の息苦しさになる。
S  三島の行動は何だか散々な結果になったように見える。何か解決はないのか。嘘つきのパラドクスがぐるぐる回ってしまうという結論しか出ないのか?

【偶然を飼いならす】
S もし先があるとすると、二回目の女が現実感のない一行で済まされている、これが二回目としてまずいんじゃないかと思う。捨てられた女というたった一行はちゃんとした経験ではない。端折っている。もしかしたら三島の性癖のようなものが隠されている?
    愛情の経験として不足だと思う。それが第二回目の経験を先へ展開できない理由。本当に一行だけの観念でしかなく、ただのアリバイでしかない。女じゃなくても男への愛情でもいいけれど、愛情の経験が十分ではない(隠している)から先へ進めない。
K  当時はホモセクシャルは書けなかった?
S  カミングアウトするような時代ではない。チャタレイ裁判とか、sexの描写が罪になる時代だから。
H  一回目が本物であるという、その潔癖さによって、二回目は経験として成り立っていない。二回目は観念でしかない。同じように、戦後の生活は偽物だという観念で三島は止まってしまう。
S  戦前の妹との愛情が完全で、戦後の恋愛が偽物という図式にはまってしまっている。戦前だって三島が愛しているのは男だったのだから、戦前が本物というわけにはいかない。妹を愛しているというのはカモフラージュになってしまう。
    母親や妹を愛するというのはホモセクシュアルではよくあることだが、そもそも女を愛さなければならないということ自体今から考えれば問題だけれど、100年かけてやっとそう言えるようになった。
   そうであっても、三島は、切実な問題を解決せずに、国家が戦後が天皇が・・・というズレ方、拡大をしていく。
K  問題がすり替えられていく?
S  これが三島の小説の不発感、出口なし感の理由かな。
S 『オール読物』なんかに書くと、構造がきれいに見透かされてしまう。率直にライトに描くと、骨組みが見えやすくなる。問題に目を瞑って、そっと立ち去るのが三島の近代小説ということか。これは参ったなあ。
H  以前の読書会でも、ライトな雑誌に書いた作品を扱った。スケートの『愛の疾走』、熊退治の『夏子の冒険』も、たしかダブルエンディングになっていなかったか。ダブルエンディングの可能性があるのに、そちらに行くことが出来なかったような。
K  女性誌に書いた一見軽い作品。
S  ダブルエンディングで結末が決まらないというのは嘘つきのパラドクスそのもの。
H  嘘つきのパラドクスがぐるぐる回ってしまうところから、三島は行動によって抜け出そうとしたということか。
S  やってみてというのは、偶然をどう手に入れるかという問題。『愛の疾走』には、偶然、はっと思ったところで抜け出るという片鱗があったと思う。偶然や占いのようなものによって、ふと抜け出す。ビー玉の話とか。
H  行動ではなく、偶然やはっとするところで抜け出すことができる、これは面白い。
S  三島は偶然性は嫌なんだと思う。予定外、計画外になるのを嫌う人だから。『愛の疾走』には、なぜかこの偶然の片鱗があるから面白い。
  『夏子の冒険』は、熊イコール金閣寺で、そのあとどういう結末になったっけ?
K  修道院に入るとか、入り損ねるというような、結末ではなかったか。
S  ちょっとした行き違いで逸れてしまって、思いもかけないところへ行ってしまう。そういう偶然性は、小説家は認めがたいんじゃないかな。プロットこそもっとも大事な小説の要件であるからには、小説は必然性である。
    三島の三文小説には、大衆読者に向けたという口実で、偶然性に身を任せても、まあいいかというようなスキがある、気の抜け方がある。
K  三島の力作小説には偶然性は出てこない?
S  出てこない。だからかえって三島の三文小説には可能性がある。そもそも三島はライトノベルの可能性さえ持っていた。
K そうすれば、三島自身も自滅しなくてよかった。
S  三島は、三文小説をばんばん書けばよかったのさ。『オール読物』素晴らしいじゃないか。

深沢七郎三島由紀夫
H  三島の最後は『豊饒の海』で、あの生まれ変わりに活路を見出したかったのだろう。深沢の『笛吹川』の生まれ変わりと三島の生まれ変わりはどう違うのか。
K  一行で済ますというのも深沢によく見られる。
S  深沢の一行の背後には、10年も20年もの経験がある。三島の一行の裏には何もない。深沢は100年生きようと200年生きようと人間は同じだと言えてしまう、一行の裏に100人も200人も人間がいる。三島の後ろには誰もいない、ユニークな唯一の近代人をした人だから。深沢には、ほんとにいい加減に生まれ変わりをやっているが、人間はみんなおんなじという見識がある。そのいい加減な生まれ変わりで、いくらでもチャンス偶然を導き入れる余地を持っている。

 

三島由紀夫「雛の宿」その2

桃源郷
S  一回目だけだったら、最高の一夜だったというのも壊れない。現実の自分の生活も壊れないし、妹との甘い思い出も守られる。そして、二回めは、現実の女に捨てられて、夢の女に走った。二回目はどうなったか?
    迷子になったというのも重要だと思う、桃源郷への道が途絶えたという話なら。二度目は迷って行き着けないというのが桃源郷。一度は行けるが二度は行けない。あの道をどんなに探しても見つけることができなかったというのが桃源郷の伝説。
    ところがこの青年は、よせばいいのに、薬屋の親父に聞きたくもない噂話まで聞かされてしまった。道も教えてくれた。だからもう一度雛の宿へ行き着いてしまった。
K  一回だったら幻想は守られる、桃源郷は一度は行けるという話でよいですか。
S  一度ならばそうなるが、二度目に行き着いてしまった。
H  そして母子がそのままそこにいたんですよね。雛人形もそのままある。
S  時間が止まっている。
   こう書いてある。「まるで木彫の彫像のようだった。そしてもし僕が声をかければ、彼らは本当の木彫の彫像に化してしまうのではないかと思われた。・・・」(41)声をかけたらほんとうの木彫の人形になってしまいそうだというのが変。
    青年は妙に賢いからここで帰ってきてしまう。最高の一夜だったという幻想が淫売宿の現実になってしまう大危機、その大危機を回避するためなんだろうが、ここが妙に逆転している。
    声をかけたら、どうなっていただろう?
K  同じことをするのでしょうか。
S  多分。どうしてそう思えるか、根拠は?
K 「いってらしゃい」と言われたのだから、「お帰りなさい」と言われる。
S 「牡丹灯籠」の映画のように、お前には死霊が取り付いているからお経を書いてやろうとか、障子に映った影を見ると骸骨だったとか。そこでようやく夢が覚める。その結果、死者の世界と、生者の世界とが分かれるというのが結末。あるいは死霊に取り殺される結末もある。
   木彫りの人形に戻るというところがとても変で、近代的な作家が作ったところだろう。この青年は妙に賢い。そこまで行って帰ってきてしまう。帰ってくる理由が、あのまま木彫りの人形になってしまうというもの。
K 「木彫りになってしまう」というのはどういうことでしょう。
S  母子は雛人形で、すべては青年が勝手な幻想を見ていたということになるのでは。
    では、声を掛けてとことん母子と交わるのと、声を掛けずにすべては雛人形の見せた幻想だったというのと、どっちがいい?
K  人形であったほうがいい。自分の思い出が壊されないから。
H  人形だったということになると、すべてが偽物ただの幻想になってしまう。生きた人間だったというほうがよいのでは。
S  生きた人間だったら、それはきちがい母子ということになるけどそれでよい?
H 両方バッドエンドですね。

S  一回だったら幻想は守られる。桃源郷は一度だけなら守られる。この伝承の記憶がなければ、この話は読めない。そして二回目があるから近代小説になる。二回目によって何がどう変わったかを読まなければ、近代小説を読んだことにならない。
K 「オール読物」の読者がそういうことまで読むでしょうか。
S  二回目に行ってしまう馬鹿な男というところまでは読むでしょう。隣の爺さんは、それで失敗するのが昔話の常套。その先に、二回目によって何がどう変わったかを考えなければならない。

H 最後に「君はどう解釈する?」と書いてあるところは、青年が母子に声をかけないで戻ってきたから持っていられる甘い夢ということでしょうか?
S  一回目だけならこの甘い夢は守られる。二回目も、そっと幻想を壊さないように何も知らないふりをして抜き足で帰ってくれば、甘い夢は守られるということ?
   木彫りの人形という幻想も、生きたきちがい母子という現実も、どちらも選べずに退散している。そこに変な無理な終わり方をしているのだから、甘い夢はもう持てない。嘘つきのクレタ人のパラドクスが突きつけられている。

   一回目には、最高の一夜だったという甘い夢には、少女が処女ではなかったということを隠蔽する自己欺瞞があった。二回目には、きちがい母子と関係を持つだけの蛮勇もないということが、母子に声をかけられなかったことで、分かってしまった。君は、自己欺瞞を選ぶか?、臆病者を選ぶか?

 

 

 

 

 

 

三島由紀夫 「雛の宿」 1953年 「オール読物」掲載

【 はじめに 

1、嘘つきのパラドックスが枠になっている。友人と僕の間で、大嘘つきの僕の話を信じるかどうか。末尾にも、君は信じるかと言って、読者に謎をかけている。中の話は、アスタリスクで二つに分かれていて、一回目と二回目の雛の宿行きがある。

2、日付を確認しておくと、去年大学2年生の終わり頃、今年大学3年で卒業と就職が決まっていることと、去年の夏妹が死んだとある。ここから、戦後、大学が4年制になったのは1949年だから、戦後から1948年までのことと推測される。平岡美津子は1945年10月に亡くなっているので、この小説の事件は、1946年3月から10月頃までに起きたと推定してよいかもしれない。1947年の3月に、1年前の出来事を思い出して書いている。

3、1回目の出来事は、妹の代わりとしての少女、2回目の出来事は、現実の女の代わりとしての少女ということになる。

4、白酒の器がおもちゃのように小さいというあたりは、泉鏡花の「雛がたり」の焼き直しになっている。鏡花では、大人の自分が子供に戻ってお雛様が大きく見える。サイズのマジックになっている。

【少女との関係】

H 『金閣寺』の場合にも、小さい模型の方が最高に美しい。

S 小さい模型の方が美しいとしたら、現実の金閣を焼かなくてはならない、同じ構造だね。この話の間違いは、二度行ってしまったらからでしょう? 一度だけだったら、最高の一夜であったという幻想と、妹だったかもしれないという甘い幻想も保たれたのでは。二回めにはぶち壊しになるということでしょう。

K 二度目には種明かしもされてしまう。

S 「あの母子のきちがいの家」と近所の薬屋が言っている、これが種明かし。

S  一度だけだったらどうか? 二度目とどう違うか? 二度行ったという二段構えになっているのはなぜか?

K 迷子になって、道を聞いて、種明かしを聞かされた。

S 一回目と二回目とはどう違うか。一回目は死んだ妹の代わりとして、二回目は捨てられた女の代わりとして、後付けだけれど、そう考えられる。一回めは、「おや死んだ妹だ」と言って断定しているから、現実にはまったく妹と似ていないが、「死んだ妹だ」という幻想に引きずられて雛の宿へ行く。

H 二回目は、現実の女に捨てられて、それで雛の宿に行ってしまう。

S 二回目は、「初夏、僕は一人の現実的な女を知った。秋の半ばに、僕はその女に捨てられた」(39)とあって、なんせ一行で出来事を済ませているんだからすごいよね。そして、「そのとき、たえがたい衝動が僕を襲った」とある。

S この青年は、神田キヨ子という少女と交わったのか?

K それほど陶酔したことはなかったとあるから、交わった。

S 嘘つきのクレタ人の例だねえ。不快な結論とはどういう意味?

H 自分は童貞だけれど、交われたということは相手は処女ではなかったということだから不快な結論になる。

K 少女は見た目とは違って処女ではなかった。薬屋の言ったことが裏付けられた。

H 相手は処女ではないという不快な結論、「しかし奇蹟やありえないこと」が起きたと信じたので陶酔の一夜となった。

S そうすると、幻想の中で現実が修正されているわけだ。現実は多くの男を引き入れていた女と童貞の青年との交りだったからうまくいった、それを陶酔の一夜だと思い込んだ、ということ。

これはとても大事な点だと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

来年の予定

スカイプ読書会

毎月第2,4土曜 15:00から17:00 

1月12日土曜 三島由紀夫「切符」(文豪怪談傑作選三島由紀夫集 ちくま文庫

1月26日土曜 太宰治 「新樹の言葉」「親友交歓」(『30代作家が選ぶ太宰治講談社青空文庫

2月9日土曜 深沢七郎「東北の神武たち」(中公文庫、新潮文庫など)

2月23日土曜 大江健三郎「飼育」(「死者の奢り・飼育」、新潮文庫

3月9日土曜 夏目漱石「琴の空音」(新潮文庫『倫敦塔・幻影の盾』、青空文庫

3月23日土曜 山下澄人 『ぎっちょん』(河出文庫

夏目漱石「一夜」(1905) 20181208読書会

【はじめに】

 「一夜」は1905年9月の「中央公論」に発表、翌年刊行の『漾虚集』に収録されました。漾は漂うという意味で、水が漂うようにゆらゆら、ぼやぼやしている境界領域を描いた作品集という意味だと思われます。

『我が輩は猫である』には、「一夜」のことが次のように言及されています。

「先生御分りにならんのはごもっともで、十年前の詩界と今日の詩界とは見違えるほど発達しておりますから。この頃の詩は寝転んで読んだり、停車場で読んではとうてい分りようがないので、作った本人ですら質問を受けると返答に窮する事がよくあります。全くインスピレーションで書くので詩人はその他には何等の責任もないのです。訓義は学究のやる事で私共の方ではと構いません。せんだっても私の友人で送籍と云う男が一夜という短篇をかきましたが、誰が読んでも朦朧として取りめがつかないので、当人に逢ってと主意のあるところをして見たのですが、当人もそんな事は知らないよと云って取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」「詩人かも知れないが随分妙な男ですね」と主人が云うと、迷亭が「馬鹿だよ」と単簡に送籍君を打ち留めた(青空文庫)。 

【形と性格】
S 「美しき多くの人の、美しき多くの夢を…」という詩を作ろうとしている髭の男と、丸顔の男、一人の女がいる。
 隣家に人が出入りしているらしい声が聞こえる。一回めの隣家の音と二回めの音がある。一回めの物音から、隣家も三人らしく、琴と尺八を合わせている。三人は人並みという評価をする。二回めは琴を弾いていた女が帰ったのち、また合奏が聞こえる。この評価の仕方がどこか奇妙。
K  二回目の評価もあまり良くない。蜜を含んで針を吹くとか。
S  「あれは画じゃない、活きている」というのは、どういうことか? 「あれを平面につづめれば矢張り画だ」とも言っている。隣家が生きているとしたら、こちらの三人は画だと考えてよいか? そうならないか?
 「女は緋と賤む如く答える」とあり、隣家の男に対してあまり評価がよくない。自分たちの方は高級で立派だが、あいつらはあんまり大したことがない。
H  何だか上から目線で、馬鹿にしているような口ぶり。
 このあたり、一人が、もう一人がとあって、どちらの男が下した評価であるかが分からないのが気になる。
S  髭があるか、丸顔かというように二人を形でしか区別をしていない。普通は、それぞれ性格があって、その性格に基づいた発言をするはず。それなのに、どちらが言っているかわからないというのは、いわゆる性格がこの登場人物には備わっていないのではないかという疑いが起こる。
 どちらの発言か分らないようだと、一人一人の性格をまとまったものとして見ることができない。
 あるいは、「美しき多くの人の…」という詩が幾度か繰り返されるが、全く先へ進まない、完成もしない。これも不審。
H 夢の話をしようとしているが、何度か言及するが、途中のままで、それも完成しない。
S 夢の話をしながらすぐにズレて行ってしまう。
K そのあげくに、ぱたりと寝てしまう。 

ホトトギス問題】
S  もう一つ重要な話題は、ホトトギスだろう。
H  最後に寝るところでも、ホトトギスも鳴かぬとある。
S  ホトトギスはククーと鳴くのだろうか?
H  鳴かないと思う。髭の男は詩を作ろうとしている、ホトトギスは和歌に出てくる名高い鳥。詩を作ろうとしているから、ククーという声が聴こえたら、髭の男は歌に出てくるホトトギスだと判断したように見える。音の正体を男は勝手に作ってしまう。何だか逆転している。いい声だから和歌に歌われていくのに、あ、ホトトギスだと思ったから、いい声だという評価になる。ククーという音そのものを聞いて判断しているのではなく、あれはホトトギスだと思ったあとでいい声だと判断している。やっぱり逆転している。
S  うん、その通りだと思う。はじめククーと鳴く鋭き鳥として出てきて、飛んで来た鳥がホトトギスであるかどうかは分からないという書き方をしている。そして、「この髭男は杜鵑を生まれて始めて聞いたと見える」とある。これはどういうことか?
    ホトトギスはククーとは鳴かない、ククーと鳴くのは鳩、ここに飛んできたのは鳩。男は鳩もホトトギスも知らないから、詩の知識に基づいて、あれはホトトギスだと断定した。これはどう見ても誤認だろう。
M  吉本隆明の『フランシスコへ』という本のなかに「ホトトギスの会」というエッセーがあって、ホトトギスの正体が分からない、ほんとうにいるんだろうかという話になる。みんなそこではじめてホトトギスの声を聞かせてもらったという。ホトトギスというのは何の比喩なんだろうか?
H  テッペンカケタカと聞こえるのも、テッペンカケタカと聞こえると言われたら、そう聞こえるようになる。詩の知識から、現実の鳥の鳴き声をそういうように聞く。
M  惚れてはいけないとかあって、この三人はどういう関係か?
S  三人で清談をしているらしい。「一声でホトトギスだと覚る。二声で好い声だと思ふた」とあって、何でもない土鳩の声がホトトギスだと思った途端いい声だと思う。女を見て一目ですぐ惚れるのもそんなことでしょうか、というようにホトトギスは女だろう。
    ククーというのはどう聞いても鳩、それもありふれた土鳩。
H  末摘花のような。評判を先に聞いて、実際に会ってみるとというような話。
S  土鳩の声を、かの高名なホトトギスだと認定している。なぜ現実の鳥を問題にしないで誤認するのだろう? 詩を作る、画を描く、縫取り刺繍をする。この三人は風流な人たちで、いろいろなものを馬鹿にしている。この三人にとって現実はどうでもいいことのようだ。隣家の合奏も、土鳩の鳴き声もどうでもよい現実。

 惚れるということの秘密もここにある。
    現実はどうでもよく、経験の積み重ねのない人たち。鳩とホトトギスの区別ができない人たち。私の考えでは、この三人は絵の中の人物で、絵の中に閉じ込められているから、経験が限られている。経験・知識を積み重ねることができない。
H  怪しすぎる人たち。
S  隣家の様子が聞こえてくる。その評価が上から目線、「あれは画じゃない生きている」というのもこの三人が画の中の人物である証拠。
H  外の世界について、藤紫や緋や黄色・茶色など色で評価していくのも画に特徴的な評価の仕方。 

【音の話】
M  何で音にこだわるのでしょう? 漱石は音にこだわりがある?
S   絵の人物だから、視界が限られていて情報は耳をとおしてしか入ってこないから、音の話になる。「変な音」も変わった話で、隣室が見えないから、隣室の音の原因を色々想像する。
K  大根おろしの音だった。
S 「そのまま、そのまま、そのままが名画じゃ」というのも、この三人が絵の人物であることを示す証拠では。あるいは、こう湿気てはたまらんとあるのも、自分たちが紙に描かれているから、湿気が駄目だからでしょう。それから香りがある。香りも画の外と内を透過する。香炉の描写もいかにも画に描かれた香炉を文章で精密に描写している感じがする。

    蜘蛛の話はどうでしょう。
H 「蜘蛛の糸」の話を思い出す。違う世界を結ぶ。
S  この漢文二行は、自分たちが描かれている画の上部に書き込まれた賛ではないか。
H 「私も画になりましょう」と言って、寝る前にも画の話題になっている。「今度からは、こちが画になりましょ」ともある。
S  これも絵に戻るというのが、すなわち寝るということではない?
 寝ると、いろいろなことをみんな忘れてしまって、また明日は、同じような会話をはじめから言い出すのではないかな。歴史がない、時間がない。
H  翌日また「美しき人の…」とおなじように言い出す。これが「一夜」という小説。
S  上から目線は、自分たちが芸術品だから。現世の隣家の音楽など俗っぽい現世に過ぎないから。現実のホトトギスなど何の意味もない。

【小説と絵画】
M「人生を書いたのであって、小説を書いたのではない」とはどういう意味でしょう。
H  この小説に対する評価を述べて、入れ子の枠がついている。
S  三人の外からの視点で、評価を述べる。髭の男は杜鵑を知らないと言った視点と同じ。一夜=生涯だということは、一枚の画は、一瞬が永遠であるという切り取り方をする。寝て起きて全部忘れて歴史がない、時間がない、性格も形でしかない、涼しい眼というのも形。そして一貫した事件は展開しない。

    一方で、小説はその中で一貫した事件を語る、ある一定の時間経過をもつ芸術形式。画と小説の形式の違いを述べた。
H  小説ではなく一枚の画を描いたということを説明しているように読める。
M  一夜は何時頃まででしょう?
S   夜半が0時前後で、更待月(ふけまちづき)は夜半過ぎまで待って出る月のこと。
M  河原温という画家がいて、絵に日付を書き入れる。日付絵画、絵を描いた日付を入れる。当日0時までに終える、その土地の言語で書くなどの規則がある。自分が生きている時間と絵とが連動している。時間と文字と色を塗る行為が連動する。
S それ、写真と非常に近い。絵は基本的に時間がないメディアで、それに時間を導入したところが河原温のあたらしさになるんじゃないか。
    一方、小説は時間芸術。だから一回めと二回めがほとんど変わらないというのが小説としては非常に異例なことで変。進まない変化しないというのが、この話が絵の中の人物についての小説であると私が考えるもっとも大きな根拠。寝ている間と昼間の出来事を繋いで語ったら小説になるだろう、その間の因果関係を説明したら小説になるだろう。
    寝たら全部忘れてしまうとあるように、性格もない時間経過もない画のような小説を試みた。

【蟻と蜘蛛】
S  蟻のところもすごく変。蟻の夢が覚めるとどうなる? 「画から女が抜け出るより、あなたが画になる方が、やさしうござんしょ」という言い方をしている。同じように蟻も葛餅になると。 蝶が私の夢を見ているのか、私が蝶の夢を見ているのかという荘子のことか。その間を説明して繋げると小説になり、関係付けないのが画だろう。

    蟻の夢が葛餅というのは、蟻と葛餅を関係付けないで、二つを投げ出したままの表現では?
M  蟻が葛餅の夢を見るのですか? 人生はほんとうは関係付けられない。蝶と私を関係づけるというのは一種の幻想ですね。
S  小説は成長して変化するということを教えてくれる。画は時間ではなく空間を教えてくれる。空間は永遠。
H  自分たちも画になってしまうというのと、蟻が葛餅になるというのは同じことを言っている。
S  蟻がうろうろしているのを三人が見ている。「蟻も葛餅にさえなれば…」というのは、蟻の夢は葛餅?抜け出るか抜け出ぬか、画から抜け出るということ?

    え、もしかしたら、この蟻も画の外から画の上を這っているということ?  蟻も絵の上から出て行けば、この菓子鉢のぐらぐら揺れるのから逃れられるということ。やっぱり、絵の上を三匹の蟻が這っている感じがする。
    鳥の声がする、湿気が外から紙を湿らせる、蟻が這ってくる、蜘蛛も下がってくるという画とその周りの世界との接点を書いている?
    葛餅は画に描かれていて、生きている現実の蟻は画の中の葛餅を食べられない。現実の蟻と画の中の葛餅が二重写しになっている。その関係は、蟻が葛餅の夢を見ているだけで食べられないということか?

【おわりに】
S  画に描かれた三人の男女の一夜の清談というのが結論。
H  小説には時間があるが、画には時間がない。男は夢の話をしようとしているが、春の夢の話がどうしてもできないのは、画の季節が夏で、夏の話しかできないからでは。
S  春という言葉だけで、絵の中では時間を進めることができない。1907年のピカソの「アビニョンの娘たち」がキュビズムのはじまりで、絵画に時間を導入した。
H 絵画では音を描けない、音を描こうとすると色に変換して描く。色の描写が多いのはそのせいだ。
S  3次元を2次元に縮約するのが絵画。
H  縫取りというのもそうか。糸は3次元だけれども、画に縫取りすると2次元になる。

 

 

スカイプ読書会の予定(12月変更あり)

スカイプ読書会(毎月第4土曜15:00~17:00)

12月8日土曜 臨時追加 漱石 「一夜」「趣味の遺伝」 

12月22日土曜 三島由紀夫「雛の宿」と「花火」(文豪怪談傑作選三島由紀夫集 ちくま文庫 880円)

1月26日土曜 太宰治 「新樹の言葉」「親友交歓」『30代作家が選ぶ太宰治講談社

2月23日土曜 大江健三郎「飼育」(「死者の奢り・飼育」、新潮文庫

3月23日土曜 山下澄人 『ぎっちょん』河出文庫