清風読書会

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太宰治著「嘘」1946年 20230709読書会テープ

【はじめに】

S  まず、登場人物を確認しておくと、名誉職の37歳の男性(語り手)、作家(聞き手)、名誉職の遠縁の青年圭吾、圭吾の妻、警察署長。それから盲目の圭吾の母親。

 名誉職の男が語った話を聞いて、作家は、その圭吾の嫁はあなた(名誉職の男)に惚れてやしませんかと言うが、名誉職の男は、そんなことは全くありませんと、はっきり否定している。彼は非常に正直だと書いてある。けれども、名誉職の男は言葉をつづけて、私の女房と彼女は仲が悪かったですというわけだから、圭吾の嫁は名誉職の男に惚れていたと考えるべきだろう。

K  名誉職の男は全く自分では気づいていなかった。

S  名誉職の男は、そのことに全く気がついていなかったが、作家と話をして、ここで気がついた。作家の言葉を聞いて、はじめて、その事に気がつかされたという事だよね。

H  でも、名誉職の話の中で、圭吾の嫁が名誉職の男に対して好意をもっているというような描写がありましたか? 何で作家はそれに気がつけたのだろう?

S  例えば、圭吾の妻が突っ伏して顔が赤くなったというあたりではないかと思う。

K 突っ伏して囲炉裏の火に近くなったから赤くなったと考えたのですが。

S  どちらにしろ顔が赤くなったということが手がかりになる。顔が赤くなるというのは重要なサイン。例えばジェイン・オースティンの小説では、結婚の話題を振られた女性は必ず顔が赤くなる。

 つまり、顔が赤くなるというのは、言語外表現として、ある種の意図や潜在意識の表現となる。赤い顔に対する解釈が名誉職の男と作家とで違っていた。顔が赤くなったのは、圭吾を匿っていることに対してではなく、むしろあなたに対してではないかというのが作家の指摘。あの赤い顔の色は、圭吾の妻の秘められた恋の兆候であったと考えてよいのではないか。

H 基本的に顔色を変えない人だった。

S  対面していても変な気持ちを起こさせない人だから尊敬していたという。

K 人格的に偉い嫁だと思っていた。

S それを見込んで圭吾の嫁に貰ってやったという。

K 色白の美人。

S  般若と言っていた。般若も、能面が一つの面で多重な表情を示してしまうように、言語外の多重性をもった妻の性格を示している。面白くなってきた。

H  惚れたとか惚れられているというのを抜きにしてしても、顔色を変えていなかった妻が実は嘘をついていて、隠し事があって、違う顔があったという話なんだけれど、それを聞いて作家が、もう一枚お面を発見するということですね。

S 太宰治の皮膚の話とよく付合して、多重な人間の話になっている。

H お面が二重になっている。

S この女性はずっと二重の面を生きているのだね。戦時中に隠れた恋があるということが面白い。

K  名誉職の本人は全く気がついていないけれど、その奥さんの方は何となく気がついていた。

H この名誉職の人は駆け引きが嫌いで、何でこんなに真っ直ぐなというか多重性のない描かれ方なのか。この般若の女性とかなり違う、逆のあり方で、だからこの名誉職の言葉は正直だけれど、その分、この時代の言葉でしか喋れていない、国のためとか村のためとか。国家の言葉に乗っかってしか喋れない。

K それで警察署長も安心して脱走兵について頼める。

S 一枚岩の男は、すっかり乗っ取られて戦時中の言葉になってしまうわけだ。この正直というのは、例の古代純朴の民の直さの徳で、まっすぐ正直というのは古代的人間像。まっすぐというのはこわい、名誉職は、それを誇りにして、それを唯一の人格としている。それが戦時中になると、やらかすし、人を抑圧するし、だからこわい。漱石の「坊っちゃん」の言うならば能天気な時代とは変わってしまっている。そうではない戦時中に太宰は生まれ合わせてしまった。

H  現代でもそういう場面を見ますよね。学校現場でどんどん先に突き進んでしまっているが、やっていること、言っていることが、それではまずいだろうと思うのに、多重化しない言葉で教育してしまう。

S  何だかすごく身につまされる。

【戦争と恋】

S 嫁の深さが実に面白い。

H 名誉職より断然深い。

S  ずーと押し殺している。一生押し殺しているというのがすごい。つまり、戦争に対峙するには一生を賭けて隠し通すほどの自我がなければならないということ。表にあらわした途端、何もかも糾弾される。社会からも国家からも糾弾される。名誉職のことを好いているという心を一生隠して抱え続けるというのがそれに対抗する方途になる、そういう発見を太宰はしている。

 太宰は、この戦争の時代の中で、どうしたら自分自身でありうるか、どうしたら自我が保てるかということを書いている、これには本当に参る。

K だから「十二月八日」(1942)のわたしの母さんのような作品が書けるのですね。

H 夫が脱走して家に帰って来てしまったというのを隠しているという嘘は、この時代だったら非国民と言われるような大きな嘘で、名誉職はそれで女を信用しなくなったというけれど、もう一枚大きな嘘として隠された恋が描かれていることがすごいですよね。

S  そのまさに非常に個人的な隠し事で女は国家に対抗している、それが何ともすごい。圭吾の母親が今は盲目になってしまっているが、夜眠って目が開いていた頃の夢を見ているのが幸せだというのが示唆的だろう。戦時中の隠した恋を夢見るという比喩だろう。

K  女の人にお色気があってというところの説明が問題だと思うのですが。

S あの説明は念が入っている。自身でも気がつかない当てもないぼんやりとしたお色気があってというところ、これが心理学が明らかにするいわゆる深層心理。しかし、潜在意識よりもっと隠された奥底に、女の恋・自我があった。私たちは、もうすでにこういう自我を持てないで、全部明け渡してしまっている。

H  全部開いてしまっているのに対して、「了見」のような形で、ちょっと閉じていたり半開きであったりする状態をどのように保つか、この女性はちゃんと秘密を自分の中に保っている。

S 戦後夫が帰って来て、何事もなかったかのように仲良く暮らしている。それでも名誉職の妻は彼女が嫌いだった。一方の名誉職は何一つ気がつかない。

H 男はアホだよなあ。

S  男は国家と自分を一致させてしまうから。

H  この作品は「パンドラの匣」(1946)の参考になりますよね。時代という大きな箱と、個人それぞれの箱の物語で、看護婦さんの中で好意を持っている人がいる、女の人の持っている秘密という問題があった。

【圭吾の話】

S 圭吾は、なぜ脱走したのだろう? なぜ首を括ろうとしたのだろう?

H その理由について名誉職は、圭吾が妻の落ち着き払って嘘を語っているのを聞いて、申し訳なくて首を括ろうとしたと言っている。そうじゃないような気がする。圭吾は名誉職と妻の関係に耐えられなくなっている?圭吾は二人の関係を感づいているのだろうか?

K 会話から名誉職と妻の関係が分かるだろうか、分からないんじゃないかな。

H 何で首を括ろうとしたのだろう?

S 脱走は重罪だから、逃げる場所などどこにもなかったから。

K 村に居られなくなる。汽車にも乗ったことのない人でしょう? 圭吾も、きわめて正直まっすぐな人。許してもらえるようなことは聞いていないだろう。

S 嫌な時代だなあ。憲兵が来る。これから徴兵されたら、こういう前例があるんだから、また同じように憲兵が来るようになるんだろうな。

S 復員して仲睦まじく暮らしたというのだから、圭吾は全然気がついていないと考えたほうがいいだろう。圭吾は嫁さんにぞっこん惚れ込んでいて離れたくなかったそれで脱走したということだろう。

K  ただ単純な人で、集団生活もしたことのない人だから、軍隊にも行きたくなかった。

S 集団生活が嫌で逃げ出した。つまり、一生生まれたところから動かず、一生汽車にも乗らず、美しい妻の顔を見て暮らすのが一番幸せだという人ではないか。この時代のもっとも安定した在り方ではないかな。電車に乗らないとか他へ行ったことがない移動したことがないという時代の単純な男。

K  小作人ですね。

S  一種の半奴隷状態なんだけれど、その半奴隷状態の中で幸福に暮らす人格が圭吾だろう。いろいろ周りで世話してもらえる。近代的な主体性のある人間ではなく、まったく奴隷状態で幸福に暮らすことができる人格。

 目の前の美しい妻が嬉しくて仕方なくて、それだけで十分幸せ、これが戦前の非近代人の典型的生き方。汽車に乗ったり、携帯を持ったりしたら、もう近代人になるしかない。男は徴兵されて汽車に乗った途端に近代人にならざるをえない。

 だから、名誉職が圭吾を汽車に乗せて兵舎まで送って行ったというのはかなり重要な話だったと思う。圭吾はその汽車を拒否して、歩いて家に戻った。鉄道は徴兵の人を運ぶために敷かれたのだが、あれは近代人になるために敷かれるのだね。

K それで国語も強いられるのですね。

H 漱石も鏡花も鉄道を語る。

S  圭吾というのは近代人にならないで済んだ人、一切気が付かないで生きた人だろう。

K 名誉職には全部世話をしてもらって感謝していて、それで申し訳なく思ったのだろう。

S 恋心を持つということが国家にも体制にも抵抗する拠り所であるということをこんなにもきっちりと書ける人はいない。

K やっぱり恋の達人。

H 人間は恋と革命のために生まれた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねじの回転」その3 ヘンリー・ジェイムズ(土屋 政雄 翻訳) 読書会テープ20230305

【反復・螺旋・巻き込み】

M 家庭教師がフローラを手に入れるか、マイルズを手に入れるかというときに、それぞれジェスル先生やクリントが現れている前で、それが問題になっているのが気になりました。

S  この女教師はジェスル先生のしたことを反復しているようだ。ジェスル先生がフローラをかわいがったように、女教師もフローラをかわいがる。そういう反復がヘテロでもホモでも同時に起こっていて、何重にも複雑な反復が起こっている。

 クリントらしき男が窓の外から覗いている、女教師が庭へまわってそれを確かめに行くと、女教師が窓の外に立つことになる。その姿をグロースさんが窓越しに見るという反復がある。そうすると、グロースさんはジェスル先生を錯覚するんじゃないか。というような反復が螺旋のように交差して、謎が深まっていく。

 神経症的に女教師はジェスル先生に操られて、ジェスル先生と同じ事をしたというのではなく、どちらがどちらを模倣したか、移ったり、反復が他の人を巻き込んでしまったり、螺旋状に深まっていく。あきらかに、グロースさんは巻き込まれている。

H 家庭教師はグロースさんの目の中にジェスル先生を見てしまう。

S クリントが主人の服を着ている。塔の上に見えた男は主人の服を着ている。

H  マイルズが先生をからかうところでも、視線の誘導がありますね。フローラが窓から何を見ているか知りたくて、隣のマイルズの部屋を避けて階下に降り、庭のマイルズを見る。マイルズはフローラを見ているはずだけれど、先生は塔の上のクリントを見ていると思っている。

S  あれは、マイルズがフローラを見上げる仰角と、塔の上を見上げる仰角の差が怪異の出現する隙間ということになる。水平バージョンと垂直バージョンの二通りの隙間の作り方がある。

 フローラが、細長い湖を船でショートカットして渡り、その後を女家庭教師がグロースさんを引きずるようにして、大回りして対岸へ追いかけて行っている。これは水平バージョンの隙間。この時も女家庭教師はグロースさんを巻き込もうとしているが、この時は決定的に失敗している。

H クリントと階段で出会うときにも上か下かが問題になる。螺旋階段はねじの比喩になる。これはヒッチコックの『めまい』ですね。

T クリスマスに語られた怪奇譚というのでどれくらいの怖い話かと思いましたがそれほど怖くない。

S  ジェイムズの怪奇というのは、たとえば本を読んでいてはっと気づくと何かがいるというような、本のページをめくる時、ページの向こうは見えない、その時にこの世ならぬ変なものが見えてしまう。それが怪奇の原理ではないかな。

H そうか、マイルズがピアノを弾いているといつの間にかフローラがいないとか。

S  意識の断絶、意識の隙間が生じる。その隙間に何かか現れてしまう。本文だと建物の曲がり角の向こう側にクリントが現れる。

H  女家庭教師が塔の上に男を見るところで、この文字のようにはっきりと見えたというところが、くらっとする。怖い。普通とは事態が逆で、文字と理性の力を否定される怖さがある。

S  登場人物すべてが皆とても美しいのはなぜだろう。

I クリスマスに語られる人々だから美しい。

K 田舎娘にとっては、洒落た服を着せられて、調度も立派だから子供たちが美しく見えた。

H これだけ枠がたくさんあって、語り手がいるから、絵になるようにその都度加筆修正されたのではないかな。意識の話と同じように、伝えられていくうちに、ずれてくる。

【主役争い】

S 最初に女家庭教師が泊まった部屋が最高級で、全身を映す鏡をはじめて見て感動している。それで一挙に物語のお姫様になった。子供達はお話の作り手であり語り手で、家庭教師はその世界に入れてもらっているとあるから、屋敷の主役はどこまでも兄妹。

H おなじところで、兄妹ごっこをしているとあるように、兄妹を外からの視線で見ているので、語りの主導権は先生の方へ移っている。主役がここで交代している。

M 最後にマイルズが死んでしまうのはなぜ?

S  フローラがジェスル先生など決して見えないと言って出ていくのは、リアリストになった、お話の世界を卒業したということだろう。だから顔もこましゃくれた普通の女の子になった。マイルズはそれが出来なかったのじゃないか。お話の世界に殉じてしまった。

I マイルズは、退校になって屋敷で音楽や演劇で称賛を得られれば十分だったとありましたね。

S フローラとともに、音の世界に留まりたいというのと、一方で、クリントに従って男の子の世界を知りたい、もっと大きな世界を知りたい成長したいという方向とに分かれている。

M クリント、あの悪魔とマイルズは言っている。

T 女家庭教師はマイルズを愛しているが、自分より出来の良い生徒として競争者にもなっている。

S この女家庭教師は誘導的で支配的で決定的に女性であることが不足であったのではないか。文字と知性の力によって叔父になりたかったのではないか。マイルズは叔父の小さな反復だから、マイルズを支配しようとし、結局殺してしまう。殺して、その位置に成り代わろうとする。

 女家庭教師は全身の姿見と、外のついたベッドを手に入れて女主人公になって、フローラとマイルズの主役の位置を奪い取った。ゴシックロマンの主人公になった。

H 心の先生とKの関係のようですね。

【マイルズ=ダグラス】

M  最後のマイルズの死がよくわからないんです。

H マイルズが死ぬと言う事は家庭教師の物語が勝ってしまうと言うことですよね。そうするとマイルズと同じ立ち位置のダグラスはよく生き残ったな。

I  ダグラスは見事な朗読術だったとあり、それで女家庭教師に勝って主導権を取ったので死ななかった。

M ダグラスはなぜ手紙を送って送られたのか?

K  20年前の夏にその話をダグラスは女家庭教師から聞いていたから。

M なんで話そうとしたのだろう?

S つまりこれはお断りの話で、あなたの気持ちはありがたいが、私は今でもずっとマイルズを愛しているということになる。

M 忘れられない人がいるからダグラスを断った。

S ダグラスはその家庭教師を40年間思い続けている。この執着も相当恐ろしい。お話に祟られた、支配されたというようなことがありそうだ。そうすると、ダグラスはマイルズの反復、マイルズの次のバージョンと言うことにならないか?

 これは漱石の「こゝろ」と全くおなじ。若い書生の「私」は、先生から手紙をもらって、先生の死を抱えてこの先を生きていく。これは先生がkに死なれて、その死を弔って10数年を過ごしたしたことの反復である。

H  マイルズが、ネジの1回転目だとすると、2回転目はフローラではなくダグラスだということか。 子供が2人だから2回転ではなく、人を巻き込んで枠が増えると回転が増える。

【おわりに  読者のアブダクション

M  それでは3回転目は無いのでしょうか?

S  作者はダグラスの持っていた手紙を正確に写したとある。作者は多分ダグラスを愛している。クリスマスに語ってくれた手記を送ってくれたのは、愛されたことへの返礼だから、作家はダグラスを愛していたと思われる。女家庭教師も20年後に手記を送り届けている。これもダグラスの愛への返礼だろう。

H  ダグラスが朗読し始めようとしたときに、それならばいい題名があると言ったのが作者で、ダグラスはそれを無視して語り始めた。

S  なるほど。題名をつけることによって、その物語に意味を与え、所有者となり支配者となる。そしてその作者が出版したしたのが、今私たちの読んでいる「ねじの回転」という作品であるということになる。そうすると、次の4回転目は、わたしたち読者が巻き込まれて、「ねじの回転」を解釈することになるだろう。

 ダグラスは「作者」を誘引し、「作者」はそれに引き寄せられたが、ダグラスは「作者」の愛に応えなかった。この辺の事情も、『こゝろ』の先生と若い書生の「私」との関係に類比される。「私」は先生に誘引されるが、先生からは拒絶される。その断りの理由として、若い頃の出来事を語って聞かせようとした。しかしそれは叶わず、「私」の手元には先生の手紙が残された。「私」は先生の手紙を語る新たな語り手となり、ねじが回転する。読者を巻き込み、語り手として取り込んでいく構造は両者で共通している。これを読者のアブダクションと呼ぶことにしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねじの回転」その2 ヘンリー・ジェイムズ(土屋 政雄 翻訳) 読書会テープ20230305

【文字と音】

S グロースさんが文字を読めないことが重要ではないか。文字を読めない音声だけで生きている人と、文字を操る人との対立ではないか。フローラとグロースさんは音声の世界に生きているが、マイルズは学習したい勉強したいという成長の路線に乗って、文字文化に加担した。

T フローラは文字が読めない?

S  まだ文字を学んでいない、基本の文化が音声なんだろう。

K フローラは白い紙を渡されてアルファベットの練習をしている。

S フローラはあれが退屈だと言っている。文字の世界に飽き飽きしていて、音声の世界の方がずっと豊かだと思っている。それによってマイルズとフローラの運命が変わる。

女家庭教師は断然文字文化の信奉者、牧師の娘だから文字の教育を受けている。一方、グロースさんのように女性は文字が読めなくてもお屋敷に奉公できる。

女家庭教師が、あそこにクリントがいるとか、女の人がいるとか、グロース夫人に見ることを強要するのは文字の呪い、文字の支配力を振るっている。それにグロースさんが対抗できたのは文字が読めないから、文字の説得には決して納得しないから、見えないと言える。グロースさんは意外に重要人物。

I グロースさんがオウム返しをするのが気になります。それによって話がどんどん膨れ上がっていく。深読みをすると、グロースさんがすべての首謀者ではないかと。

S 逆で、音声に生きる人間は反復するしかないのではないか。グロースさんの意志ではなく、女家庭教師の意志をいたずらに増幅するしかない、そこで使われてしまい、支配されてしまう。それだけ文字の支配力のほうが強い。

H ただのオウム返しではなく、家庭教師が女の幽霊を見たときに、ジェスル先生という名を言ったのはグロースさん。反復しているうちに家庭教師につりこまれ導かれて、その名前を言わされてしまう。音声に生きているから反復するしかなくて、文字をもっている女教師に誘われて言ってしまう。

S 誘導されている感じがあるよね。女家庭教師がジェスル先生と言わせようとして、深層心理に働きかけるのを、文字を知らないグロースさんは無防備に受け取ってしまったということだろう。

M これは統合失調症の話かなと思って、中井久夫の『世界における索引と兆候』という本の内容とつながるのではないか。音声だけの世界というのは、幻覚と幻聴によって出来上がっている世界。この時代だとフロイトと関係があるのでは。「兆候は、何か全貌が分からないが、無視し得ない重大な何かを暗示する、あるときには現前世界が兆候で埋め尽くされ、あるいは世界自体が兆候化するのが世界破滅感であって、兆候化するとは不安のことで、、、記憶とこれから起こることについて、、、兆候化しすぎると精神病の領域に入る。」余韻とか予感がただよっている物語だと思いました。記憶をめぐってみんなが話していて、それは中井さんのいう索引という現象に符合するだろう。

H 家庭教師はそういう兆候を拾っている場面がたくさんある。

M 中井久夫統合失調症の研究をする精神科医

S 中井さんはおそらくフロイト精神分析の本道につながる人ですね。しかし、注意しなければいけないのは、ヘンリーの兄ウィリアム・ジェイムズは、それとはやや異なる心理学をはじめた人。サブリミナル識域下という訳語をつかって、無意識研究と区別されている。二つの異なる無意識研究があって、20世紀はフロイトの時代になってしまったが、ジェイムズはそれとは少し違うところがあるらしい。無条件にフロイト系の無意識研究を当てはめてはいけないのではないかと思う。家庭教師が、クイントとジェスル先生の死を無意識に察知してしまったと思いたくなるが、ヘンリー・ジェイムズは、その一歩手前のところで書いている。

 もう一つ、幻聴と幻覚の世界ということについて、無文字の世界は、野蛮な暴力的な非知性的な世界だと思ってしまうが、無意識と関わりの深い文化人類学レヴィ・ストロースが発見したことは、野生の思考。無文字の世界には知的認識の仕方があり、必ずしも文字がないことが非文化ではないということが20世紀の文化人類学の知見。

M 兆候と記号は同じsign

S そのサインをつかって書かれた小説を、私たちは、どこまで、どのように理解するかが問題になる。たとえば、マイルズは同性愛で退学になったと言ってしまっては多分違う。謎を作ったままあるということが小説としては重要。マイルズの退学理由は最後まで明かされない。ヘンリー・ジェイムズの書き方は、明かされない謎を、兆候のまま描くということだろう。

「ねじの回転」その1 ヘンリー・ジェイムズ(土屋 政雄 翻訳) 読書会テープ20230305

【はじめに】

S 最初に時間の枠を確認しておきます。

ダグラスが、筆者の「私」たちを前にして、おそろしい話を朗読して聞かせた時点。その時ダグラスは大体60歳から65歳位と見積もった。ダグラスは子供が二人登場する恐ろしい話を知っていると言い、その話を記した書き物(手紙)を自宅から取り寄せた。

現在、ダグラスはもう死んでしまっていて、死を目前にしてその手紙を「私」に送ってくれた。それをそのまま書き記したのがこの短篇である。

ダグラスが推定60歳の時に、20年前に知り合いの女教師が死亡して書き物を送ってくれたとあるので、ダグラスが40歳の時、女教師は50歳で死亡したと見積もっています。

女教師の死亡から20年前、女教師が30歳の夏にダグラスと出会った。ダグラスは20歳位の青年で、10歳年上の女教師から、直に10年前に経験した恐ろしい話を聞いた。この時点から60歳までの40年間、ダグラスは女教師に思慕を抱き続けた。

女教師が語った話は、女教師が20歳の時の出来事で、この20歳という年齢だけは作品の中で確定している。女教師は、さる屋敷に雇われて、二人のお子さんの面倒を見ていたが、一人は死んだ、そういう出来事があった。

H 螺旋階段のようにめまいがしそうです。文書の枠を確認すると、女教師の日記があって、それをダグラスが受け継いで、それを筆者が正確に書き写したということですね。手紙のように受け継がれている。

S 手紙のように文字という手段の受け継ぎと、ダグラスはその出会いの夏に女教師から出来事を聞いている。そのあと20年後に手紙が送られて来て、文字と口頭のズレがある。正確に写したという作家の文字のバージョンと、非常に美しく朗読したというダグラスの声のバージョンがある。

H 兄弟もたくさん出てきて、確認すると、お屋敷のマイルズとフローラの兄妹、ダグラスにも妹がいて、妹にその女教師がついていた。家庭教師にも兄姉がいて末っ子だとあり、グロース夫人を姉妹のように感じている。屋敷の主人も兄弟の子供を預かっている。

K 弟はインドで死亡して、その子供を叔父が預かった。

 

【さまざまの死】

S ジェスル先生の死因は何だったのだろう? 解説では子供ができて死亡したとあるけれど、そんなことは書いてない。身重になって年末に帰ったまま戻ってこられなかったという解釈? 隠しようもなくまずいことが起きて帰って来られなかったということか。

I クリントの死因は?

T  パブで酔って凍った坂道で足を滑らせたとあるが、「少なくとも表面的には」と書いてあって、結局よくわからない、謎だらけとある。

H 状況証拠、散らばっているものをつなぎあわせると、そういうシーンが何となく見えてくる。ジェスル先生の場合も、どこやらそういう絵・ストーリーが見えてくる。

S ジェームズ特有のどこやらそういう絵柄が見えてくるという書き方がある。「絨毯の下絵」

K 説明が多いわりには、はっきりしたことは分からない。

S さて、では最大の謎マイルズの死因は?

T BBCのドラマを先に見たのですが、世間知らずの初心で欲求不満の抑圧された女性で、病んでいる女教師が、マイルズへの恋愛感情をもってしまって、殺してしまったのか?

S マイルズとの関係は恋愛だろうか?雇い主の主人への恋愛感情があったことは書かれていて、女教師は恋愛をしていたという枠の記事がある。美しい主人への感情がマイルズへ移行した? マイルズの年齢は?

K 10歳。恋愛対象にはなりにくい?

H そうすると、マイルズと女教師との年齢は10歳差で、女教師とダグラスとの年齢差も10歳差。

S マイルズはこのとき元服年齢、レディと一緒ではいやで、男の子の世界に入っていくと言っているから、成人年齢に達しつつあり、かろうじて恋愛対象になると考えてよいだろう。ダグラスと女教師の年齢差と呼応していて、そういうお年頃だからと言っている。恋愛対象としてあり得るだろう。

H 2章で、あの方は若い女性が好きだからとグロース夫人が言うところで、双方で主語を取り違えている。あの方とは、旦那様?マイルズ?クリント?

S そうすると、雇い主の主人からマイルズへ恋愛対象が移行したところで、罰せられた形で死ぬということか。屋敷の支配者としての叔父さんの怒りに触れた?

M マイルズとクリントの関係はどういうものですか?

S 同性愛でしょう。

M クリントは、あんな恐ろしい関係をマイルズともちつつ、女家庭教師とも関係をもった。

S マイルズをめぐって、クリントの同性愛的な牽引力と、女教師のヘテロ的な牽引力とが争ったというようにも見える。

M 同性愛は捕まるのですね。

S オスカー・ワイルドアラン・チューリングも獄死している。「教え子」という作品でも同性愛が疑われるので掲載をどうしようか問題になったという。

M マイルズもクリントもどちらでもよく、グロースさんと女家庭教師も姉妹的関係がある。

S そうすると、この話は、時代の最先端で、ヘテロとホモが同等に考えられなければならない。謎が倍になる。マイルズが退校になった理由は、たとえば同性愛だと思えないことはないが、誰もそれを名指して言えない。何度も何度も話題に上っているのに、結局明かされない。言えない秘密になっている。

S フローラについては、最後に顔が変わるのが怖い。この兄妹はたいへんな美貌だというがどうも信頼できない。

K 屋敷の主人も美しい。

S ダグラスが女教師を非常に美しいというのも疑わしい。美しく聡明だというのは出来事を見るととてもそうは思えない。40年経つと美しくなってしまうのではないか。

T ねじが二回転したらどうだろう、子供が二人だったらとあって、フローラの問題も重要だと思う。

S マイルズはなぜ死んだかという問いの後には、フローラはなぜ生き残ったかという問いがあるということですね。

H 家庭教師はフローラを手に入れることには失敗していますね。その途端にフローラの顔が醜く見えた。そういう失敗の一回転があって、次はマイルズ。マイルズを手に入れることには成功したんじゃないか。成功したからマイルズは死んでしまったのではないか。永遠に自分のものにするためには、マイルズは死んでしまうしかない。

ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳「嘘つき」その2 20230218読書会テープ

【秘密】

S 画家が肖像を描くということと、小説家が小説を書くということが相似形になっていて、小説についての小説になっている。その構造をもう少し明らかにしたい。

 真ん中に何を置くかという最初の話に戻ると、大佐という特異な人物を置いていると考えることもできるし、嘘を置いているとも考えられるし、間に肖像画を置いているというのが絵画小説としてのこの小品の特色ではないか。

 オリバーは人を見るときに肖像画としてどうかと常に考えている。人を観察するとき間に絵を置いて考える、これがオリバー特有の見方ではないか。

H 肖像画を依頼された人の息子に会った時も、この人は肖像画にならないなと言っている。値踏みをしている。

S ライアンは絵に描かれた肖像こそ自分にとって現実であって、実際の現実から離れている人。逆に、大佐は、結婚して生活を成り立たせていて、現実そのものを生きている。現実を生きるか、肖像画の世界に生きるかという対立ではないか。

 そうすると普遍的な問題として、ヒッチコックの「めまい」のような話になる。肖像画の中の女性を愛するか、現実の女性を愛するか。

H 普通に読んだら、大佐たちの方が嘘つきで現実を生きていないと思えるが、現実に結婚して、世渡りのなかで面白い話をするために嘘をついている。

S 私たちの現実は嘘でまみれている。嘘と体裁と取り繕いに充ちている。つまり現実そのものを大佐は生きている。それに比べるとライアンはものすごく教条的で、うるさい黙れ、おまえが生きているのは絵に描いた餅だろうと。まるで逆転してしまったね。

H 最後のところで、夫人は、あなたにはお気の毒でした、でも私は絵のモデルをちゃんと所有しておりますと言っている。ここすごいですね。

K いままでの話をまとめるとこうなる。

H ライアンは絵を所有し、夫人は絵のモデルを所有している。

【家の構造】 

H ライアンの家の構造もへんですね。みんなが通る召使いに案内されて入る扉からの印象と、簡単に入れる庭からの入り口からの印象が違う。入るところによって部屋の印象が違う。対比している。

K アトリエが一階にあって、二階の回廊を通らないと一階に下りられない。

S 絵そのものの構造と、アトリエが同じ構造をもっている。見方によって見え方が異なる。このアトリエの描き方と、漱石の猫の家の構造とがどこやら似通っているように思える。

K 漱石の猫の家の説明もよく分からない。垣根がどこにあるか。

S 仕切りのカーテンを開くと回廊に通じるドアがあるとか、アトリエは増築されていて継ぎ足してある。通路や回廊というのが境界領域になっている。この複雑な建物の構造が絵の構造と相似形なんだろう。

H 最初の屋敷の構造も同じで、新旧継ぎ足してあって、廊下が長いと書いてあって、その先の部屋に幽霊が出る。

S 建築についてもジェイムズは趣味があって、そういうところも漱石と似ている。

【ゆく末あはれ】

S 犯人にされた女性がよく分からなかった。ジプシーみたいな女性で、顔立ちは悪くなく、「ほんもの」の何にでもなれるミス・チャームに似ている。

H 大佐の嘘の犯人にされた。

S あらゆる虚構に対応できるモデル。このモデルがいかにもうらぶれている。初々しい感じはしないとか、ひどい靴を履いて、どこか薄汚い感じ。この薄汚さと、大佐夫婦の生き生きした楽しさとが対になっている。

 絵やフィクションとは関係ない人たちは、非常に健康的に現実を生き抜いている。逆に、モデルや役者は、現実以上に薄汚く年老いていく。その隣に、非常に立派な絵が残り、舞台が残っていく。絵に魂が吸い取られる。この女性の薄汚さは身に染みる。すべからく芸術に関わるとこういう罰を受ける。

H 三代目桂米朝さんが好きなんですが、入門するとき、ゆく末あはれは覚悟のまえやでと言われたと。

S 富岡多恵子の「たちぎえ」の落語家もそうだったね。

I その女性はライアンは会ったことがないと言っていたけれど、ライアンは前に描いたと思っている。絶対会ったことがないと言い切っているのが逆に嘘つきで、使い捨てで、消費されてしまった人だと思う。

S  若さと美しさと生気は全部吸い取ったからお前は用済みだ、カスは出て行けということだろう。ライアンは相当ひどい。

H もう絵は手に入れている。

S この夫人がライアンの絵を手離したのもそういう意味があるかもしれない。ライアンに関わっているとろくなことにならないと。(その絵は、バタつきパンを子供に配っている絵で、聖女の肖像。理想化された観念の肖像だった。)

I 娘のエイミーの肖像を描くときも、毎回ついて行って非常に警戒している。

H エイミーの絵を描いているときも、夫人が自分に気があるのではという勝手な妄想を描いていたわけだ。

I 君の絵は眼を瞑っていても描けるよというセリフにぞっとした。ホラーですよね。

H 本人はもう全然関係ないわけだ。大佐の肖像も眼を瞑って描いた。

S 大佐が嘘つきだという観念を描いたわけだ。すぐれた肖像画家は人物の本質を暴き出してしまうのだとつい読んでしまうのだけれど、読者はここを読んでライアンは嘘つきだと気づかなければならないのだね。Iさんすごい目のつけどころ。

I ライアン気持ち悪いで読んだから。

S これはライアンを疑えという小説。

H ライアンは、大佐を装ったと言って、自分が絵を切り刻んでしまったと召使いに答えるところが、ちょっと引っかかったのですが。

S なぞるとか装うというのが気にかかる。

I 嘘をつくのでも大佐を装ってする、自分自身は嘘はつきません高潔ですという意味でしょうか。

H   Iさん、ライアンの嫌なところを見つけるのめざといな、ライアンのことはIさんに聞こう。

 

 

 

 

 

 

 

ヘンリー・ジェイムズ 行方昭夫訳「嘘つき」その1 20230218読書会テープ

【信頼できない語り手】

H 嘘を暴くために絵を描くときに、ライアンは、絵筆を使って現実そのものを描くというより、ねじ曲げて大佐を描いている。その結果はじめて歪んだ大佐の嘘が描かれる。その絵筆をとるやり方は、大佐が現実に対して脚色してその結果嘘をつくのと同じことだろう。

K ノンフィクションと同じで、見た人の事実であるということでしょう。夫人と大佐の関係は、朱に交われば赤くなるということで、そういうのも純粋経験でしょうか?

S 嘘が伝染した。その根底に、純粋経験つまり夫と妻とで無意識の通底があると考えられるということですね。夫と妻とは似てくる。

H ということは、大佐の肖像画が出来上がったときに、すべての嘘が現れてしまっているというのは、夫人の肖像画も出来上がっているということでもあるのか。大佐の嘘が暴かれているだけでなく、夫人の嘘も暴かれている。

K 本人はいい男に描けていると言っている。本人は全然気がついていない。

S  妻が肖像画を見て嘘に気がついたことで、オリバーはそれで辛うじて安心した。オリバー・ライアンって、かなり意地が悪いよね。ここには嫉妬という背景があって、この女性と結婚するはずだった、お金がないから結婚できないと断るが、オリバーにはまだ執着があって、これが大きな動機としてある。

K 今の私なら結婚してもらえますかと尋ねている。

I フィッツジェラルドの「乗り継ぎのための3時間」を思い出します。12年間会っていないけれど週に2回は思い出すと言うのはストーカー的で、ライアンの妄想、狂気を感じる。

S かなりおかしいのはオリバー・ライアンじゃないかな。

I そうですよね。

H 大佐と夫人の関係も歪んでいるけれど、ライアンの言うこともあまり信用できない。

S 信頼できない語り手だね。ほんとうにこの大佐は嘘つきだったのだろうか?と。他愛のない嘘で調子よく生きている人ではないか、その疑いがある。

 違ってしまうのは、オリバー・ライアンが悪意をもって肖像画を描いたというのが引き金になって、度外れた嘘、凶行が行われたということではないか。つまりオリバーの方が原因ではないか。オリバーが肖像画を描いて、ひどい表情を引き出したというのは、ものすごく意地悪い。

H そうか、絵が嘘を暴いたとも言えるけど、絵を描いたことによって、嘘がどんどん大きくなったり、取り返しのつかない嘘をつかせた。

S  インド帰りの大佐が腹を立てたのは、妻をめぐって、妻の嘘をあらわにしたということが、加害を加えられた、不当な加害を加えられたと感じたからだろう。普段は調子よく流していた。大佐の嘘というのは、インドの友人が生きたまま埋められてといった嘘。

H 他愛のない嘘。

K 幽霊、怪談話。

S しかし、オリバーが描いた肖像画は、あきらかな悪意、牙を剥き出した。それに対して大佐はナイフでズタズタに切り裂いた、そういう話に見える。だから作家も画家も嘘つきなんだよ。

H 単純に大佐と夫人が嘘つきだったとライアン側に立って読んでしまいそう。

S ライアンは、大佐の肖像を描き直している、悪辣な表情に描き直している。

I ライアンが嫉妬深い男に見えるかもしれないが大目に見てやって下さいとあって、作家は馬鹿に肩を持つんだなあと、逆に違和感をここで持った。

S  それが手がかりになった。

H 逆フラグが立っていた。